河

涎と永遠についての概論の河のレビュー・感想・評価

涎と永遠についての概論(1951年製作の映画)
5.0
シュルレアリスム、ダダってきてその次としてレトリスムがあってその提唱者による映画で、映画としてはディスクレパン映画って分類になるらしい 70年代ゴダールの原点感がある 物語的な構造を問題として無化する点では初期のアランロブグリエにも通じるものがあると思った

始まった瞬間からエネルギー量のすごさに圧倒された 理想的かつ原始的なかっこいいマニフェストの部分とと現実のアホみたいなラブコメで構成されていて、それが入れ子構造になるタイミングがチャプター単位と映画全体の2回あって、そこも最高

チャプター1はダニエルが映画についてのマニフェストを語る部分で、映画は言葉(意味)とイメージが完全に調和したものとして完成してしまい、これ以上の進化はない グリフィスやチャップリン、ブニュエルを映画の進化に寄与した人と位置づけ、言葉とイメージが一致しない、イメージが目を傷つける、頭痛とともに映画館を去るような醜い映画を作る、意味的な解釈を必要としない自律した映画、映画を映画たらしめるものを解体し尽くした映画を作ることで、映画を次のフェーズとして悪魔的なフェーズに移すって宣言してタイトルが出る そしてタイトルを映画の中盤においた初めての映画、そしてそうであることを映画内で自慢して、ニヤニヤしてるダニエルの顔が映ってチャプター2になる

このチャプター1の、人の声での呪術的なリズムとマニフェストのプリミティブなかっこよさの中街で歩くダニエル(監督)の映像が永遠と繰り返される感じがめちゃくちゃかっこよくて、この時点で完全に掴まれてしまった トレインスポッティングのイントロ的なかっこよさ

醜いものを見たいなら映画じゃなく鏡を見ろとか野次が入るのも良いし、映画におけるパンク的なマニフェストに対してそれがファシスト的って視点が常にあるのも良い

チャプター2はダニエルが思うようにいかない恋愛をする話 イブが物語的な欲求に沿って動きはじめてそれにナレーションが三文オペラみたいだなみたいにメタ的なコメントをする ダニエルがその経験を元に映画を作り始めることで、これが監督の話でチャプター1への前日譚的な話だったことと入れ子構造になってることが最後にわかる

チャプター3はレトリスムが最高!今一番アツい!みたいな内容のセリフとレトリスムの詩が交互に繰り返されて、レトリスムが導入される その後チャプター2と接続されて、そのまま映画作りについての映画になりチャプター1と接続される ここではレトリスムをベースに、チャプター1とは反対に具体的な方法を対話を通じて検討するけど、段々と独善的になってきてそのままチャプター1のマニフェストに対して批判的かつ同じ方向性の理論が現れて攻撃し始める

チャプター1とチャプター2が交互に現れるようになって、最後、この映画全体がイブの話としてチャプター2との二重構造になってることが明らかになって、かつそれを解説し始めた時に映画的な感動があった そしてその後さらにこの映画自体がマニフェストでチャプター1の二重構造になっていることもわかる

チャプター3の特に一度打ち立てたマニフェストを元に対話したり、批判したり、別の理論と止揚しようとするところとか、かなり政治的な時期のゴダールのマニフェスト的な映画群の原点って感じがある でもまたゴダールとは違う呪術的で原始的なかっこよさと映画としての構造があった

追記: イジドールイズーと同じくレトリストの一員だったギードゥボールが政治参加するかしないか(イズーはあくまで芸術の範囲にこだわった)を理由に分派したのがレトリストインターナショナルで、それが他のグループと合流したのがシチュアシオニスト そのシチュアシオニストの実質リーダーとしてドゥボールが書いたのがスペクタクルの社会で、五月革命の根拠になったらしい だからゴダールが五月革命以降の政治の時代に作った映画がこの映画を参照元として引っ張ってきてるのはかなり腑に落ちる話だった
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