きゅうでん

ミッドサマーのきゅうでんのレビュー・感想・評価

ミッドサマー(2019年製作の映画)
4.0
この映画を観終わったとき、この映画が公開される数年前に日本でも大ヒットした書籍『サピエンス全史』を思い出した。
その書籍の前半では、我々ホモ・サピエンスが他の人類種に生存競争で勝利したのは、我々が“虚構”の信仰能力を得た「認知革命」によって、家族よりももっと大きな単位での協力関係・組織づくりができたからだ、という内容が書かれている。
最初は原始的な土着宗教だったのかもしれないが、その虚構はやがて、国家、法律、法人、現代宗教、貨幣、科学といった、現代人にも馴染みのあるものに発展していく。
現代の生活基盤は、何もかも虚構だ。蛇口をひねったら水が出るのも、“賃金“を求めて水道局という“組織”に属し、働く方々がおられるからだ。貨幣制度という虚構のおかげで、見知らぬ誰かの労働の恩恵を得られる。
“社会“に属する全員が「そう」だと信じているから意味が生じているだけで、これらの実態は実際には何も“ない”のだ。
しかし前述したとおり『サピエンス全史』では、それを信じる能力こそがホモ・サピエンスが生き残る大きな要因になったというのだ。

そう考えると、『ミッドサマー』で語られることも、なるほど、納得がいく。
ラストシーンで、ダニーはホモ・サピエンスの誰もが持つ能力を使ったに過ぎない。
ダニーは、信じて、救われた。
フィクションのためにホモ・サピエンスがあるのではなく、ホモ・サピエンスのためにフィクションがあるべきなのだ。
ホルガ村を見て一方的に断罪しようとする人々(ダニーの彼氏とその友人たち)には、その視点が欠けている。
キリスト教徒(=クリスチャン)も、ただ別の虚構を信仰しているに過ぎない。

ここまで村側の視点に沿って書いておきながらも、この映画はやはり、明らかに観客が村に対して恐怖を感じるように作られている。
この映画の真の醍醐味は、この村を観て生理的に感じる恐怖が、そのまま日常生活に降りかかって来るところにある。
なんで毎日、肩書き上“同じ会社”に属するだけの他人と協力して働いてるんだ?紙ペラやスマホ上の数字の増減と引き換えに食料を得ているのも、見ようによっては狂気じゃないか?冷静に考えて、なんなんだこれ??
ホモ・サピエンスの能力の肯定を見せられることで、逆説的に、その信仰が揺らぐ。

現代社会を生きる我々の笑顔と、ラストシーンのダニーの笑顔は、いったい何が違うのいうのだろうか?
スクリーンを一方的に見ていたはずの私が画面の向こうのダニーから見返された時、そんなことが頭をよぎった。