ニューランド

十代の夏/新学期のニューランドのレビュー・感想・評価

十代の夏/新学期(1956年製作の映画)
4.4
✔『十代の夏/新学期』及び『いなかより都会へ』『ピクニック』▶️▶️
この日は、巨匠達の一時間に充たぬ中~短編を、深夜からの仕事を午前中で終えたあと、仮眠を取らずに立て続けに3本観、長編代表作に全く劣らぬ魔力・純度に吸いつけられた。
二十代前半のフォードの撮ったハリー・ケリーもの『いなかより都会へ』。騙された婚約者を取り返しにNY社交界に殴り込む?牧童と仲間達(現地の摩れたふたりも共感・協力)。複数動感の並行・合一・混乱のフォードには珍しい留まるを知らぬ世界に、プロットへの効果を超越した接写・縦図・表情・影と闇の、美・力の瞬間が瞬く現れては消える。無償の神的なるものの降臨を何回も体験す。
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ロジェの三十代の短編は、寡作も全てが偉大なる(只、21Cに入っての近作を除く)四本の長編に匹敵する圧倒的、そして同じく日常の限界のない延長世界を描いた稀なる作。未知の自然や異郷(異境)に、成り行きで巻き込まれたのか・本当は自ら無意識に計画してたのかわからぬ、等身大の・地続きの延長でしかないのに、信じがたい他面・多面・広さ・拡がりの、世界・それに繋がる内面宇宙を見せてくれる。光が、水が、心が、降り注ぎ・沸き上がり、流れ続ける。真俯瞰Lやロー・仰角、アップも効果的にあれど、基本的にアングル変化は控え目、世界の在り方・関係性に沿い続け、せりだしてスタイル化することはない。鞄が机が、泳ぎ・走りや河~堀~野が、蛇が、群れとしての子供たちが、現れ消え、動感と移動の境界・限界を知らない、それでいて限りなく美しい自然な節度がある。
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ルノワール絶頂期40代も雨季に祟られ未完をベッケルらが再編集した『ピクニック(田園行楽)』は、すでに’77のキネ旬洋画10の読者投票でスコセッシ・アルドリッチ・デパルマ・ロージ・ヴェンダース・アルトマンらの新作、ファスビンダー・ブニュエル・タルコフスキー・ヘルツォクらの近作、同じ作家・ヤンチョー・マルらの旧作の快作(絞り込む前は10本を超える)の上に、1位で置いたが、映画史上最高作の1本、100%賛美というわけでもなかった。ある時代のある階級の価値観の絡まり、自然とその一部としての人間の開放、の撮り方の感覚としての限りない透徹性は、同時にかたちとしてある種の好ましさ・フォーマルさ、どこか可視をひっくり返すひっぺがしまでは描き抜いてない品の良さが(すべての芽・進行形態・結果は洩れなく押さえ、二大要素が引き合って地割れを見せるを示してるとしても)幾許かあって、他の破天荒or古典主義を極めた頂点作(逆説的なげやりさorフランクな厳粛さで深奥まで描き尽くす)に比べ、やや物足りなかった気もしていた(本作をルノワール作品中最も愛する人も多いので、どこか肩身狭く)。
しかし、今回長い間を置いて再見すると、人物たちの社会的道徳的責任への拘りと本能的反発も、自然の静けさ・荘厳さと息吹きの自覚、そこからの自らの欲望の生まれる発見と見届けも、全ては一体的世界への真摯で濁りをはらう関係をつくる、生きる(活きる)人間たちの都度一瞬一瞬で即場・刹那も真剣な選択を伴う、正直で他人の痛みを感じ合う反応と働きかけの継続のかたち(仕掛け、駆引き、ふざけすらも)、その内へ緩まぬ結晶の追い付き合いなのであり、フォーマルというより共通の内面に向けてのせめぎ合い・事象への愛の発露の連続・持続の、奇跡的に限定された場・時代・世代(染みを染みとして見れる初期ブルジョアの存在した世)が重なった、サイズ・レンズ・アングル・(以前は誇張的にも感じた)音楽・(フォロー・半主観)移動の表面からの完全なる距離と直視をあらわし得た作品世界がある(橋からプーラン亭へ、議論を打ち破る開けた窓からのブランコの娘、草上を歩く・駆引き・昼食と虫いきれ、河上を滑る・より澄んだ空間、小島の上がり口~小径の水面接し、枝木の小鳥と地の自己の生や性、涙から風・雨が自然を揺らし・濡らす)。解釈以前の世界のあり方・曲げ方ーその起点の原型がある。そこに描き切り・念押しなど重い不純物でしかない。ただ自然だけが人には変容・変化に・その予測不能と見えても、より巨視的には不動でもある配置・流れ・存在を、むしろ反応的・感覚的モンタージュ・カメラワークを通して持ち続けている力・踏み堪える美しい意志がある。ラストは限られた社会性や生命の長さによる運命などではなく、自然の巨大さに位置貼りされている自分と最も気にしてた他者が(主人公ふたりと逆方向にだが)重ねて見えて、その再会・別れに感動しひどく堪えた・また大きくは救われた。
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