ニューランド

ある闘いの記述のニューランドのレビュー・感想・評価

ある闘いの記述(1960年製作の映画)
3.5
『北京に清潔さ等はもたらされたが資本家は残存した。いろんな民族の歴史も組み合わさった区画が錯綜し差異を残してる』『不正の代価の上に成り立っているイスラエル、イギリスもユダヤ人も安易に出発点を捉えていてこうなるとは予測を超えてた。ユダヤ人の元々の羊飼いとしての放牧地拡大ー領土欲も止まらない』『日本民族ではない琉球(民間)人が最も日本人的価値観の下に多くの命を散らせた。・・・・沖縄の度を越した抗戦は、アメリカに本土上陸を躊躇させ講和にもっていく為の“捨て石”という(大本営の)決定・作戦だったが、逆に原爆使用を決定させることになった』
『ある闘いの記述』を中にして、前後『北京の日曜日』『レベル5』と、3本続けて観たわけだが、反右派闘争前、中東紛争激化前、原爆投下は生体実験とのトゥルーマン見解(ソ連との占領後のイニシアチブ取りも)、等その後(の進展・解明)を考えれば、政治に関心ないまま来てしまった私でもちょっとと少し思うが、しかし論調・語調自体がシニカルで刺激的、超然としつつ独自密着の天才を感じる。また、スタイルはどんどん暗く絶望性を増し、オープンな力ある造型は、マイナーで独善的・感覚的なものに変わってゆく。
パリから北京へ、きらびやかで開放的な原色の氾濫・組合せ、濃霧から公園まで自然美と礼儀の世界、各時代の権勢を偲ばす遺跡(への道)、切り絵アニメによる世界の内的由緒、多種民族・多様風俗の区分けと垣間見え。じつに紋切り型を超えて柔らかく味わい深く、構図とアングル取りとサイズ切り替え、カメラワーク、構成も見事な’56作。
’60作となると、ゴツゴツといろんなしこりをかすめ、部分的に当たってく。嘆きの壁の帰属問題や安息日の徹底した反活動性、ユダヤ人内の(欧亜他)出自社会の交錯、集団農場キブツの未来の不安と・現状の民主社会徹底と家族主義の介入、少数アラブ人のそれ以上に不当に狭い居住区、世代による信仰と科学の比重の差異、そもそも現実から乖離した“しるし”と沈黙が社会的感覚と価値を支配する・現実的には不正な国際取引に基づく国家と権力のあり方(内的闘いを常に秘めた若い国)の根本を問われるベース。横や上やフォロー長めの移動と、サイズ・アングルも確実で、タッチ自体の力が今も訴え、問う位に強い。
’96作となると、ゲーム上の可変の戦局との同等対峙の筈が、過去の歴史事実とその不可侵性・細部真実性のみの浮き上がり、映像を記録する行為自体の歴史の大勢・歪みとの同調の暴力性、と身動き出来ない想像力の不自由の無力ばかりが強調され、閉塞してゆく。証言・発言者も狭く限定されて、うちひとりは沖縄戦のドキュメンタリーをものした大島渚・そして戦後世代も軍人の実際や精神への確信的同調者・さらに淡々としゃべってるも本当の戦場の地獄に対し深奥まで入りこんだ人、と観ててチャチャも入れられず、広い切り口からの介入の可能性や脱出口はシャットアウトされてる。不全な回答が当たり前の機械の前で、人格まで持つ仮面で介入せざるを得ず・全ての存在性すら確信できなくなってゆき、自己に問い続けることになってく操作者は憔悴し次第に自らを喪失してゆく(この作家には珍しい役者演技すら剥き出しに。死まで届く「レベル5」の体現者として)。日本人としての美徳体現の集団自決が中核にもやっとしかし強く存在してく。フィルムと違うデリケートな編集・溶解性は、画像の独立と相互モンタージュの衝突感まで否定しているかのようだ。
異動でばたばたしてて、合間をみつけて観て、また少し時間がたったので、ただでさえ、複雑な内容をかなり忘れたのでいい加減になったが、なんとなく感触だけは残ってる。
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