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命みじかし、恋せよ乙女のchiakihayashiのネタバレレビュー・内容・結末

命みじかし、恋せよ乙女(2019年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

 樹木希林の遺作(昨年7月に撮影、9月15日逝去)はドイツの大ベテラン女性監督ドーリス・デリエの本作。

 カールの人生はボロボロだった。アルコールに溺れ、仕事は続かず、愛想を尽かした妻に離婚され、愛する娘の誕生パーティでも全く歓迎されない。そんな彼のもとへ日本からひとりの女性が訪ねてくる。父が日本で亡くなったときに傍らにいたユウだった。彼女の希望で両親が暮らしていた田舎の古い家を訪ねたカールは、毎夜のように、夢かうつつか、黒い影のようなモンスターと亡き両親の幽霊につきまとわれることになる・・・・・・。

 本作の前編にあたる『HANAMI』(08)はカールの両親の夫婦愛の物語だった。夫は地方の町の実直きわまりない公務員。妻の方は若い頃、日本の舞踏に魅了され、自分も踊っていたことがあるらしい。夫はさすがによい顔はせず、妻に付き添って舞踏の公演に出かけても、自分は終わるまでロビーで待っている。定年を迎えた夫がガンの末期であることを知った妻は、夫を誘って息子や娘の家を訪ねる旅に出る。当然のことに老いた両親はあまり歓迎されない。しかも旅の途中である夜、妻はベッドで冷たくなっていた。
 葬式を済ませ、ひとりぼっちになった父親は亡き妻があこがれてやまなかった富士山を見に日本を訪れる。折しも末っ子のカールは東京の銀行に勤め、会社の花見の宴席では不器用に日本人の上司にお酌をしたりしている。所在なく花見客でにぎわう桜並木を歩いていた父親は、ひとりの少女が舞踏を踊っているのに出くわす。やがてその少女ユウとの交流が始まり、彼は富士山に向かい、ある夜、富士が映る湖のほとりで亡き妻の面影と共に舞踏を舞い、息絶える−−−−。

 ドーリス・デリエ監督については、ドイツで大ヒットしたという『メン』(85)が日本で公開されて以来、できる限りその作品を見るようにしていたのだけれど、しばらく空白期間があり、彼女の来日が30回以上に及び、日本で映画を撮っているとは知らなかった。『HANAMI』はある年、EUフィルムデイズで上映されたのに駆け付け、ラストシーンでは落涙した。あの世代の男性が長年連れ添った妻の真実と再び出会うためにはあれだけの旅路を辿らねばならなかったのだ。

 さて本作では、カールの父親の父親はナチスの党員だったことが明かされる。また現在、カールの兄は極右の政党員になっていて、その高校生の息子は父親への抵抗から額にハーケンクロイツの入れ墨をしてひきこもっている。レズビアンの姉は養女をふたり迎え、子ども時代は母親のお気に入りだった末の弟のカールに兄と一緒になって意地悪をしていたことを思い出す。
 ある夜、カールは甥が自殺するのではないかと案じて取るものも取りあえず飛び出し、帰り道に雪の森で倒れる。結果的に脳死状態からかろうじて生還したものの、凍傷でペニスを失ってしまう。ここでペニスとはもちろん男性性の象徴である。カールは再生するにあたって、これまでの男性性にまつわるコンプレックスを手放さなくてはならない。このあたり、私が見た限りではドーリス・デリエ監督が男性を主人公にした作品群のブラックなユーモアはなかなかに容赦がない。
 カールは、「あなたはそのままでいいの。愛してる」と言ってくれたのに突然いなくなってしまったユウを探しに日本へ。導かれるように訪ねた海辺の古い旅館を独りで切り盛りしていた老女(樹木希林)こそ、ユウの祖母だった。

 その旅館の一室で、再び黒い影のようなモンスターが現れる。カールはかつてユウがしていたように、なんとか落ち着いてそのモンスターにお茶をふるまう。モンスターはアルコールへ依存することでカールが否認していた自己の影だったのだろうし、お茶を振る舞うのはその影との和解の儀式でもあろう。
 が、カールの試練はそこでは終わらない。実はとうに自死していたユウの幽霊にカールは海へと引き込まれそうになり、そこで初めて、僕は生きたい! と全身で踏ん張るのである。

 『HANAMI』に比べて、息子の世代を描いた本作では、社会はどこかタガが外れて混乱の様相を呈し、個々人の人生は一層手に負えなくなっているようだ。その顕著な兆候が戦後70年経っての極右の台頭であり、監督は「ドイツで今起こっている出来事の大部分は、過去に関係があると私は思います。目をそらしているうちは、いつまでも暴れ続けるのです」と語っている。実際にカールの父親は自らの父親がナチスの党員だった事実についての屈折を遂に解くことができず、母親もかつて重いウツを患っていた時期があったことをカールは知る。カールたちは言わば両親が抱え込んでいた心的な傷の後遺症を病んでいるのだ。

 翻って監督にとって日本は「アニミズム的な文化を持つ国」であり、「私は、現実と夢と想像を同等に並べて見ることを日本で学びました」という。
 前作『フクシマ・モナムール』(16)では、婚約者を結婚式直前に裏切って破綻した(結婚という〝人生の大冒険〟に飛び込む不安と躊躇からバカをやらかすその気持ちはわからないでもないけれど)傷心の若い女性がヒロイン。ドイツからフクシマの仮設住宅を慰問に訪れ、桃井かおり演じる年長の女性の〝喪の作業〟に付き合うというストーリーだった。桃井かおりが洒脱な芸者役、ヒロインであるドイツ人女性はピエロに扮するパフォーマーと、ジャンルこそ全く違うとはいえ、ともに芸人というか、身体表現を職業にしているところがひとつのキモだろうか。彼女たちはリクツではなく、身体感覚で反応するのである。
 そして、〝幽霊〟がふんだんに(?)登場する。デリエ監督は「私は冷静な北ドイツ気質で、科学的な教育を受けて育ちましたが、でも『フクシマ・モナムール』の撮影中、これはもしかすると定義の問題に過ぎないのではないかと気づいたのです。記憶を〝幽霊〟と呼ぶとしたら、当然私は常に幽霊とともに生きています」とも語っている。

 ちなみに樹木希林が老女将を務める茅ヶ崎館は、とあるブログで「是枝裕和が執筆のために利用する茅ヶ崎館は、1950年代に小津安二郎がやはり脚本を書くために籠った宿である」と知ったデリエ監督が『フクシマ・モナムール』で来日した際に訪れて、インスピレーションを得たのだとか。

 いやぁ、しかし、デリエ監督の作品は、先が読めない突拍子もなさは相変わらずだけれども、なんだか解釈がすごく容易になっているなぁ(笑)。これはドイツと日本という異文化のブレンドの賜物か。それとも、映画という芸術がトランスナショナルな普遍性に開かれているということか。

 

 
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