YasujiOshiba

デッド・ドント・ダイのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

デッド・ドント・ダイ(2019年製作の映画)
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自粛明けの初映画館。ユナイテッドシネマとしまえんは、小さな頃から娘ふたりを連れていったけれど、今回は連れてきてもらった感じで、ジャームッシュ節のゾンビ・コメディを堪能。

以下、備忘のために:

『オンリー・ラバーズ・レフト・アライブ』(2013)の撮影中に、ジャームッシュにこの映画の構想のヒントを与えたと言うティルダ・スィントンTilda Swinton だけど、映画のなかで葬儀屋の女主人の役名はゼルダ・ウィンストン Zelda Winston 。ほとんどティルダの名前を言い間違えたような役名だけど、こういう言葉遊びをスプーナーリズム(頭音転換)というらしい。

実際、この映画は遊びに溢れている。掘り起こせばどんどん出てくるみたいだけど、ぼくはとりえず IMDB の Trivia のページ(https://www.imdb.com/title/tt8695030/trivia?ref_=tt_trv_trv)を楽しく読みながら、スプーナリズムという言葉を教えてもらったといわけ。

名前の話で言うと、アダム・ドライバーの役名がロニー・ピーターソンRonnie Peterson というのも、ジャームッシュとの『パターソン Paterson』(2016) を思い出させてくれちゃったりする。アダムズくんについてはそれだだけじゃない。

なにしろ今や誰もが知っている『スターウォーズ』のカイロ・レンなのだ。彼が持っているキーホルダーには帝国のバトルシップ、スターデストロイヤーがぶらさがっているのだけど、それをゼルダ/ティルダがめざとく見つけてこの映画大好きというのは、ほとんどホラーからSFへのジャンル横断的なギャグであるだけじゃなくて、アダム・ドライバーという俳優自身への言及であり、その意味で映画の語りのフレームの外をほのめかすギャグなんだよね。

ジャンル・横断的なギャグは、ティルダが『キル・ビル』(2003)のユマ・サーマンばりの殺陣を見せてくれたり、そのあとでファッションセンス抜群のゾンビの首を切り落とすのだかけど、そのゾンビはきっと栗山千明の演じたGOGO夕張に違いないではないか。

ただし、タランティーノがきっちりと日本の殺陣師を使った本格的なオマージュだったのに対して、ジャームッシュの引用のほうはやや軽い。まあその軽さがよいのだけれど、ティルダ/ゼルダが畳に正座したところから日本刀を抜刀するところがいただけない。正座から片膝を立てるとき、反対の足も爪先立ちになって畳をグリップするのが居合の基礎。しかも、カメラが後ろから撮っているのだから、爪先が畳にペタッと伸びているのがなんとも気持ち悪い。

まあ、思いっきり深読みすれば、その気持ち悪さが、あの墓場での「故郷」への帰還のシーンにつながるのかもしれないけれど...

ところで、あの「故郷への帰還」のスペクタクルシーンに、登場人物たちは驚かなければならないのだけど、その直前にアダム・ドライバーとビル・マーレイは、演劇などで言うところ「第四の壁破り」に相当する会話を交わす。こんな感じだ。マーレイ、「どうしてお前さんは、酷い結末になる予感がする、と繰り返すんだ」。ドライバー、「ジムの脚本を読んだのさ」。ジムとはもちろん監督のジュム・ジャームッシュのこと。

物語のなかで物語の作者に言及するようなメタ物語や、フレームの外にいる観客に直接語りかけたりするのを、演劇の世界では「第四の壁を破る」というらしい。

実は、この「第四の壁」も、この映画を観た後に調べていて出くわした言葉。ようするに舞台と観客席にあると想定される想像上の壁のこと。それはちょうど、レオナルドの「最後の晩餐」で使徒たちがすべてテーブルの向こう側に座っていて、あたかもテーブルのこちら側が存在しないかのように振る舞っていること。

なるほど、日本の漫画もそうだけど、コメディというのは、この壁を平然と超えて、読者や観客に話しかけ、ときにはクリシェや仕掛けを暴露する。それによって、フィクショナルの世界の人物は、それを観賞しているこちら側と、ある種の共犯関係を結び、その関係を利用して笑いを誘うことができる。この映画でジム・ジャームッシュがやっていることはまさにそれ。

とはいえ、ジャンル横断のお遊びをやっているだけの映画ではない。ひとつはスティーブ・ブシェーミが演じる農夫ミラー。ビル・マーレイの演じるチーフ・シェリフからは「イケすかない奴」だとこき下ろされる男だけど、そのミラー/ブシェーミがかぶっている赤い帽子には見覚えがある。それはもちろん、トランプ大統領の政治集会に見かけるものだけれど、白い文字で書かれているのは「KEEP AMERICA WHITE AGAIN」。なるほど、マーレイが「イケすかない奴」と言うはずだ。

そう言えば、今思い出したけど、ゾンビ映画に欠かせない日曜雑貨用品店のオーナーのハンク・トンプソン/ダニー・グローヴァーとブシェーミとのダイナーでの会話。コーヒーをもう一杯と言われて、黒人のハンクの目の前で「ブラックが多すぎるぜ(Too much black) 」とやるところ。言ったあとでやばいという顔をするブシェーミを睨みつけるダニー・クローヴァーだけど、『リーサル・ウェポン』(1987)でメル・ギブソンの相方なんだよね、怖いはずだ。

ところで、そんなブシェーミのところのニワトリは、果たしてキツネが奪ったのだろうか。それとも、この白人至上主義の農夫が主張するように、森の中で世捨て人となっているボブ/トム・ウェイツが盗んだのだろうか?

疑問の余地はないように思えるけれど、ジャームッシュは、あらゆるクリシェを反復しながら、ほんの少しずつ、気がつかないものには気がつかない程度に、わかるものには実によくわかるように、コードをずらしてみせてくれる。

ゾンビ映画のコードが黙示録なのだとすれば、ジャームッシュはそのコードを守りながら、微妙にずらしてみせてくれる。そのズレこそが実のところ、コロナの時代を生きるぼくらに、なんの違和感もなく、むしろ、じつに真面目なメッセージとして届くゆえんなのかもしれない。

P.S.1
スマホゾンビとかSiriを呼ぶゾンビが登場するのは、ゾンビは時代とともにって感じよね。

P.S.2
そうか、ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』はきっと、大澤真幸さんが言っているように「終わりなき終わりを生きよ」ということだったのかもしれないな。そして、終わりなき終わりを生きるって、コメディなんだよな。それも、ほとんどディヴァインな。
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