カラン

サスペリア PART2 完全版のカランのレビュー・感想・評価

サスペリア PART2 完全版(1975年製作の映画)
4.0
日本では、ダリオ・アルジェントは『サスペリア』が先行して売れたために、『サスペリア』よりも早く製作されていたこの”Profondo Rosso”は配給側の判断で『サスペリアpart 2』なる邦題になったらしい。しかし、『サスペリア』はホラーというか、ホドロフスキーに近いオカルトであり、他方で、このpart 2のほうは、エドガー・アランポーの推理小説の猟奇性を際立たせたようなミステリーであるので、この二作の間にはほとんど何の関係もないし、いらぬ勘違いを招きはしないだろうか。まあ、観てくれる人が増えるならそれでもいいだろうが、今さらこういう映画を観る人にとっては関係ないんじゃないかな。

このイタリア語版の完全版は、英語に吹き替えた劇場公開版よりも20分長い。逆に劇場公開版は20分も検閲していたわけだ。ダリオ・アルジェントの奥さんの、ダリア・ニコロディがたくさん出てくるのは嬉しい。この嫁さん、今は離婚されているようだが、もしかしてダリオ・アルジェントよりも癖のある人かもね。ブラウンの細長いタバコを、縦回転させて火を付けてた。演出というより、普段からしてる癖なんじゃなかろうかってぐらい、板についた振る舞いだった。



ところで、完全版とか、ディレクターズカットとか呼ばれるものは、だいたい冗長で、緩慢で、蛇足に満ちているのが常である。しかし、ダリオ・アルジェントのような倒錯者の本質は、この冗長な蛇足にあるのではないのか? つまり、この完全版をこそ推奨すべきなのではないか。

例えば、マルキ・ド・サドの小説はプロットが物語を展開するのではない。サドの執拗で直接的な性描写が、付随的に、物語を展開するのである。例えば、サドは「冷静に犯さねばならない。なぜならそれが《自然》であるから」と『閨房の哲学』で言っていた。犯す理由はないのだ。サディスティックな行為をするべきである、理由、なしで。そうすると、SM的行為だけが後に残り、自己目的化することになる。だからこそ、本質的なSM描写は、冗長で緩慢で蛇足であるのだし、そうでなければならない。なぜなら、SMは「冷静」に遂行しなければならないからだ! 馬鹿みたいに緩慢に、無意味な儀式のように描写せよ、SMがSMであるならば! Sがサドで、Mはザッヘル・マゾッホのイニシャルなのであるが、そのマゾッホの小説を原作とするロマン・ポランスキの『毛皮のヴィーナス』などは、SについてもMについても的外れで、まったく脚本家の主人公さながらの哀しき凡庸さである。本質的な本質は、目新しさなど無用なのである。(なお、このポランスキの映画にも彼の嫁が出てくるが、なかなか素晴らしい。『潜水服』の女優さん。)


この映画のフィルマークスのジャケ写に採用されているような自動人形のくだりなど、物語的な理由などないのだろう。それ自体が冗長な蛇足なのだろう。そのように考えるならば、おそらくこの映画の次作、つまり『サスペリア』に始まる系列こそがこの鬼才とその嫁の魅力が展開されるのかもしれないし、そういう意味でこの「蛇足」としての完全版を私たちは喜ぶべきであると思われる。
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