TOSHI

わたしは光をにぎっているのTOSHIのレビュー・感想・評価

わたしは光をにぎっている(2019年製作の映画)
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これは、素晴らしい。ハリウッド製のエンターテインメント大作が優勢なフィルマークスでは、静かな日本映画というだけで観ない人が多いだろうが、そんな人にこそ見せたい作品だ。

冒頭から、自然を捉えた俯瞰の美しい映像に魅せられる。湖に突き出した桟橋に、二人の女性が立つ。両親を亡くした澪(松本穂香)は、野尻湖のほとりの小さな民宿を祖母・久仁子(樫山文枝)と切り盛りしている。しかし祖母の入院で民宿を閉める事になり、父の親友だった、東京で銭湯を経営する京介(光石研)を頼り、居候する事になる。銭湯を含めた街(立石)の雰囲気は、東京というより地方の小都市のようだ。人付き合いが不得意な澪は、スーパーで働き出すが、人間関係で直ぐに辞めてしまい、祖母の「出来る事から、一つずつしなさい」という助言で、京介の銭湯の仕事を手伝うようになる。番台に座り、常連客である、自主映画を撮っている銀次(渡辺大知)やOLの美琴(徳永えり)と知り合い、自分の居場所が出来て行く。

澪はちょっと“トロい”感じで、おどおどして、明確な自我が感じられない。本作における彼女は主役というより、この作品世界を映し出すフィルターとして存在しているかのようだ。彼女の大きな瞳が、関わって来る人達を真っ直ぐに見つめて、スクリーンに刻む。劇的な事は起こらず、静かなドラマが展開されるが、説明的なセリフを排し、あくまでも映像で表現される心象描写が秀逸だ。ピアノ主体の劇伴が、それを増幅する。
作品のコンセプトになっているのが、山村暮鳥の「自分は光をにぎつてゐる」という詩だ。光を握っている事に確信を持てない、空っぽであるかも知れない、だからこそより強く握りしめるという詩を反映した、光を反射させる水のイメージが多用されるが、最も印象的なのが、光が差す銭湯で、澪がお湯をすくい見つめるシーンだ。何でもないシーンだが、これが映画だと思える、奇跡的な瞬間が現れている。詩人としても活躍する中川龍太郎監督の、詩を映像化したような、優しさに溢れた映像センスに唸る。

区画整理に伴う再開発で、やっと出来た自分の居場所も無くなる事を知った澪は…。中川監督が、「飛べない時代の魔女の宅急便」と表するような成長ストーリーではある。美琴から「話せないんじゃなくて、話さないんだよ。そうやって自分を守っている」と弱点を突かれていた澪は、一歩を踏み出す。
しかし重要なのはそれを凌駕するかのような、研ぎ澄まされた映像美だ。一つ一つの映像が、美しい。フィルマークスで、「映画はストーリーが全て」という記述を見た事があるが、ストーリーは二次的な物であって、映像で物語るのが真の映画なのだ。ハリウッド映画にはありえない、アクティブではない主人公と平凡なストーリーで、圧倒的な映画を作り上げた中川監督の才能は本物だろう。
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