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わたしは光をにぎっているの海のレビュー・感想・評価

わたしは光をにぎっている(2019年製作の映画)
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つい昨日、夜神楽を観に行く予定だった。地元よりも知り尽くした大好きな町で、毎年この時期に、お稲荷さんの神社で行われる。近くの銭湯でお風呂は済ませて帰るつもりで、下着とタオルと眼鏡を鞄に詰めて家を出た。向かう途中にふと気になって電話をかけた。今夜、神楽はやるのでしょうか。すみません、今季は中止になっております、と女のひとの声が告げた。電話の向こうの、部屋の中に、風があるのを感じた。そうですか、わかりました、どうもありがとうございます。電話を切った。もっとはやく掛けていればよかったな、とは思わなかった。観光協会のサイトに中止なんて文字はどこにもなくて、電話をかけて確認をとるまで何もわからないその町のことが、わたしは心から嬉しかった。 終わってしまったり、できなかったことが、死なずに生きている町が時々あります。その空気を、誰が作っているのかは知らない。そこに生きて暮らしている、働く大人たちかもしれないし、駆け回る子どもたちかもしれない。単純に、歴史を正しく美しいかたちで残そうとする、受け継がれてきた情かもしれない。ううん、わたしには理由はわからないけれど、その町は、終わりが死なずに生きている町なんです。 その町で、お昼ご飯に、かならず立ち寄る定食屋がある。いつもうどんとおむすびを頼む。ある冬に、厨房の中に、赤ちゃんをおんぶしている女のひとが居た。彼女は忙しなく動き回って、大きな声で喋ったり笑ったりしているのに、赤ちゃんは静かに眠っていた。ある夏に、厨房の中に、まだ彼女は居て、赤ちゃんは、少し大きくなって、焦げ茶色の髪の毛が扇風機の風にふかれて、親指は口の中にくわえられて、いろんなひとに話しかけられて、時々「あ」とか「う」とかって声を出して笑っていた。あの子、今頃はもう保育園や幼稚園に通う頃だろうか、と昨日、家に帰りながら考えていた。もっと大きくなったとき、あの子はおぼえているんだろうか、お母さんの背中やうどんの出汁のにおいや扇風機の風のことを。本当はきっと、もっとわからないことばっかりです。もっと時間が経たないと、わからないことばっかりなんです。 この映画には台詞が少ない。でもその少ない台詞が、わたしには、色んなことを説明しすぎているように感じられた。びっくりするほど、わたしのこの心には何もふれてくれず、聞いた言葉は全部耳たぶのところで消えていって、なにひとつとして覚えてない。このひとたちは皆、終わり方を見つけた。でもわたしはこんなにうまく自分を納得させてあげることはできない。わたし、どこにだっていけるんです。でも本当は、どこにもいけないんです。わたし、どこにもいけないんです。でも本当は、どこにだっていけるんです。わたしはそんな自分のことを、身勝手で薄情で、すごくずるいとおもう。本当にどこにもいけない何か、本当にどこにでもいける何か、わたしはどっちにもなれなくてただ圧倒されるばかりなんです。それだけがわたしの本当なんです。 そこに居ないと、見えないもの聴こえないものってあります。この映画が伝えたいことが何かひとつだけあったとして、それはわたしにとってたぶん、そういうものだった。わたしはこの画面の先に、映されるもの以上の何も感じられなかった。悪い意味でも良い意味でもなく、ただわたしはこれで、いいのだと思う。
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