藤見実

パラサイト 半地下の家族の藤見実のレビュー・感想・評価

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
4.5
1/13
黒沢清『クリーピー』(とトウキョウソナタ)だが、こっちの方が面白い(面白いという意味では)。これは韓国映画がうらやましくなる。面接に行く時の坂、照明のつなぎはなかなかのもの。天気の子でイライラしたことが全て解決した。ラストは板門店にみえる。

感想付け足し

1.雨
『パラサイト』は上から下に降る雨によって貧困の構造を明確に描き出した。貧困家族が山手の家から半地下へ裸足で降りていくシークエンスは「うそでしょまだ降りるの?」と笑ってしまったほどに長かった......笑っちゃうほどに格差があるのだ。金持ちは土地の高いところに住み、貧しき者は低い(安い)ところに住んでいる。(さらに半地下の住居は下=水にも壮絶に悩まされる(ここで大江健三郎『河馬に噛まれる』を想起するのは妥当なことだろう)。)

 これは当然東京という都市においても当てはまる。昨年公開の『天気の子』もまた(一側面として)貧困を描いたアニメーション映画だったわけだが、主人公のアルバイト先=半地下の事務所は雨によって水浸しになるものの、タワーマンションの子どもはガラス窓から外を眺めて「おさかな」(雨が飛び跳ねる模様)を愉しむことができる。東京は水没するが水没する地域は下=町である。

2.大陸の空気
 パラサイトで最も痛烈な場面。大雨の翌日、金持ちの奥さんが、自宅(半地下)が水没し避難所で夜を過ごさなければならなかった運転手に対して「雨のおかげでPM2.5がおさまって嬉しい」となんの悪意もない笑顔で話しかけるところ。金持ちにとって雨は単純にめぐみの雨であった。それが当然、「しょうがない」(だっけ? 『天気の子』)ことだったのだ。

3.『空気人形』
 金持ちは貧乏人の匂いに敏感だ。雇う雇われるの関係に差別が入り込むのは「空気」に関わる要素からである。半地下の家族はその生活から生じる臭いによって金持ちから「変だ」と思われる。「地下」に夫をもつ家政婦は桃アレルギーを結核と勘違いされる。金持ちが恐れるのはナイフや爆撃ではなくて、空気感染である。空気洗浄機の時代だ。

4.ガラスの家
 金持ちの家は下からは見えない。
 というのも、玄関側から見ても、塀が高くて中を見ることはできないのだ。労働者はそこから入ってそこから出る。しかし、家をさらに(太字)上から見た場合はどうだろうか。終盤、半地下家族の息子は山に登る。家を玄関とは反対から見るために。山に登り高い視点を得た彼が見るのは、リビングの「大ガラス」である。半地下の家族が路上の小便を被ったように、山手の家は山からの視線を被り、覗かれる。「事件」のあと、現場は何も知らないドイツ人家族の家となり、事件の痕跡は全くない。ガラスには痕跡が残らないのだ(ヴァルター・ベンヤミン「経験と貧困」を参照)。そもそも山手の家は、特にリビングにおいて、家ではなく、Apple Storeのようだった。高名な建築家に建てられたという設定が(地下の存在以外に)ここに効いてくる。建築家に建てられた近代的建築=家は「家」らしくない(夫婦のソファでのセックス・シーンを思い出して欲しい。アレ、山上に登ったら見れたんだなと思うと笑っちゃう。付け加えると息子は何故か「インディアン」で戦いの最中=テント=プレハブにある)。
 いうまでもなく、その構造によって地下の夫婦も半地下の家族も寄生が出来たのだ。戦前のブルジョアなら何もかもを装飾で埋め尽くし、すべてを自らの手の内にすることが可能だったかもしれないが、パラサイトされた家はそういったセンチメンタルな住居ではない。センチメンタルなのはむしろ、記事が飾られ光の入らない地下(そしてここは資本主義からも商品からも権力からも外部とみなされる、本当の「シェルター」であり、アジールなのである。)の部屋であり、ここには台湾カステラもタピオカもない。ただ「父」(亡くなった「父」)への「リスペクト」だけで成り立つ空間。金持ちの父親の新聞記事の切り抜きをボーイスカウトが崇拝する、この「温かさ」は、教育勅語らしい、時代から取り残されている。食べ物をくすねて命を繋ぐ様はまるで『木の上の軍隊』(井上ひさし)である。

5.「統一」へ
 半地下の息子は大学に行き収入を得て地下にいる半地下の父を救うことを夢見る。息子が陽光の下ガラスの向こうに展示されている。父が地下から這い出てくる。2人はガラスの面に置いて抱き合う。実に感動的な抱擁。板門店会議。それにはまず資本と威力が必要なのである。ガラスの夢を彼らは諦めない。



なんか付け加えたくなったので書いときますが金持ちの家の息子が戦時状態なのは徴兵制のある国ならではの設定なような気がする。もちろんボーイスカウトや暗号も含めて。
藤見実

藤見実