湯呑

パラサイト 半地下の家族の湯呑のネタバレレビュー・内容・結末

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

ポン・ジュノという監督は、ジャンル映画のフォーマットを利用しながら、決してその枠組みの中に収まりきらない、過剰な物語を撮り続けてきた。その為、『グエムル-漢江の怪物-』や『スノーピアサー』といった、外見上エンターテインメント色の強い作品では、こちらが予想した内容と実際に語られるそれがあまりにかけ離れている為、戸惑いや困惑を覚える事がしばしばある。今回の『パラサイト 半地下の家族』は第72回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した為、ちょっとアートっぽい、貧困問題をテーマにしたヒューマンドラマなのかな、と予想している人も多いだろう。ところが、本作はまたもや観客の予想を裏切り、中盤にとんでもない展開の待ち受ける、一級のエンターテインメント映画に仕上がっているのだ。意外に人を選ぶポン・ジュノ作品の中では最も分かりやすく、万人受けする作品と言えるかもしれない。
『スノーピアサー』と同じく、資本主義経済における格差問題をテーマにしていながら、『パラサイト 半地下の家族』が非常に分かりやすい作品になっているのは、『スノーピアサー』では列車の客車、という水平方向の分断によって表現されていた階級格差が、地上と地下、という垂直方向の分断に変更されている点が大きいだろう。ジョーダン・ピール『アス』の感想でも述べた様に、私たちが暮らす世界の地下に、持たざる者たちが彼らだけの世界を作り生活している、という恐怖を伴ったイメージは、多くの映画で繰り返し描かれてきた。『パラサイト 半地下の家族』もそのイメージに倣ったものだと言える。
しかし、そうはいっても一筋縄ではいかないのがポン・ジュノ作品である。本作では、様々な策を弄して大富豪の家に入り込み、他人の財力に寄生して生活する貧困一家の住む家を単なる地下ではなく半地下、と設定している点に注目すべきだろう。地下と半地下って何が違うわけ?と思われる方もいるかもしれないが、その疑問についてはこの映画のファーストショットが明確に答えている。映画は、主人公であるキム一家の住む家の窓からの景色から始まるのだが、その景色の目線がいやに低く、歩行者の足下や車のタイヤぐらいしか見えないのである。やがて、カメラが引き、その窓が家の天井付近に取り付けられた明り取りの窓からの景色であった事が分かる。つまり、彼らの住む世界は地上から完全に隔離された地下ではない。地上の世界がぎりぎり窺える様な、言葉を換えれば地上とかろうじて繋がっている様な、「あいだ」に位置している訳だ。
『スノーピアサー』で主人公たち貧困層が生活していたのは列車の最後尾車両であり、徹底した管理によって彼らが富裕層の住む先頭車両へ移動する事は許されていなかった。だからこそ、彼らは蜂起し暴力によって先頭車両を奪還しようと試みたのである。彼らが車両を移るに従って明らかになる、富裕層たちの住む車両の実態(常軌を逸するほど長大な列車には学校や病院、菜園やダンスホールなど様々な役割を担った車両が用意されている)が映画的見せ場となっていたのだが、しかし、彼らの「闘争」が身を結ぶことはない。「闘争」は、疾走する列車という閉鎖空間の中で人口過多を調整する為の手段として予め管理されていた事が映画の終盤で明かされる。厳格な階級制度とそこから生じる階級闘争も、走り続ける資本主義経済の中では必要悪としての意味しか持たない、という絶望的な世界観がそこでは描かれていた。この循環から逃れる為には、世界を動かすシステムそのものを機能不全に陥らせるしかない。だから、映画のラストで主人公たちは爆弾によって列車に風穴を開ける事で「闘争」を「逃走」に変え、雪と氷に包まれた不毛の地へと足を踏み出したのである。しかし、その果てに待ち受ける世界とはどういうものなのか、本当に彼らが資本主義経済の循環から逃れ出る事ができたのか、とうとう『スノーピアサー』という映画で示される事はなかった。それは現代の私たちが直面している、解答不能の問題だからである。
先述した様に、『パラサイト 半地下の家族』のキム一家が住む半地下は、最初から地上と繋がっている。彼らは窓から地上の様子を窺う事ができるし、場所によっては他人のWi-Fiにタダ乗りする事すら可能なのだから、『スノーピアサー』の主人公たちとは置かれた環境がまるで違う。だから、この映画は単純に『スノーピアサー』を90度回転させ、横を縦にしただけの映画ではないのだ。ドアを開ければ何の苦労も無く地上に出られるのだから、長男のギウが大富豪であるパク一家に家庭教師として招かれ、やがて家族全員を従業員として呼び寄せるのも決して無理な話ではない。キム一家は様々な策を弄し、元からの従業員をクビにする様にパク一家を仕向けて、家族全員がその後釜に座る事で寄生生活を始めていくのだが、しかし、競争者を蹴落とし、自分の地位を向上させる事こそ、私たちが生きる世界で称揚されてきた行為ではないのか。いささかそのやり口が過激であるとはいえ、キム一家はあくまで資本主義社会のルールに則って出世していくのである。
ポン・ジュノは、『スノーピアサー』とは全く異なる手段で、資本主義経済に対抗しようとしている。そこから逃れようするのではなく、あくまでその中に留まり続け、富める者に寄生する事でそもそもの階級格差を無効化させてしまう事。寄生虫とその宿主が、客観的にはどちらが主人であるかを判別できなくなってしまう様に、『パラサイト 半地下の家族』のキム一家とパク一家はやがて、どちらがどちらを使役する存在なのか、分からなくなってくる。資本主義経済のシステムを徹底的に利用する事で、それを中から食い破り外部を目指そうとするこの戦略は、是枝裕和『万引き家族』でも共有されていた筈だ。
しかし、『万引き家族』の疑似家族がやがて破綻を迎えた様に、『パラサイト 半地下の家族』のキム一家にも悲劇的な運命が襲い掛かるだろう。ネタバレを避ける為に詳しくは言えないが、破綻の端緒は彼らが本当の地下を発見してしまった事にある。ここから、半地下と地下の間で対立が生じ、映画は暴力的な要素を増していく。問題は、彼らが己の獲得した権益を自覚し守ろうとした瞬間、消滅しかけていた筈の階級が再び息を吹き返し、彼らをもといた場所へ押し流してしまう事なのだ。そこは半地下であろうと地下であろうと、雨水や小便やゴミが流れ込む社会の下層部であるのは間違いなく、下層部に住む人間が上層部への移動する事は決して許されていない。キム一家の主であるギテクは、その残酷な事実を主人のパクからはっきりと告げられ、逆上する。
ここから分かるのは、私たちを絡め獲る経済/社会のシステムは、何も権力者から一方的に押し付けられた訳ではなく、そもそも私たちの内面から生じたのだ、という事である。自らが獲得した権利や財産は半永久的に保証されるべきだ、という所有をめぐる当然の感情が、現在の経済/社会システムをより強固にしている。その事実を自覚した時、あらゆる闘争や運動を支えていたご立派な理念は瓦解し、旧態依然とした価値観は何度も甦るだろう。
では、私たちがこの閉塞した状況から抜け出るにはいったいどうすればいいのだろうか。『スノーピアサー』がそうであった様に、本質的に悲劇の物語である『パラサイト 半地下の家族』が、その問いに答える事はない。ポン・ジュノがその解答に辿り着くには、悲劇ではなく喜劇映画こそが必要とされているのかもしれない。
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