このレビューはネタバレを含みます
貧乏家族と金持ち家族の対比は、まず自宅の描写からなされる。
繁華街の半地下に住む貧乏家族と、坂の上に住む金持ち家族。
トイレが目線の上にある半地下に住む家族と、自由な平面遣いのモダニズム建築に住む一家。
しかし思いの外、共通点もある。
どちらもあまり親族関係は描かれない。
貧乏家族はアイデンティティを偽るときに存在しない親族の話はするが、援助をしてくれるような親族の存在は感じられない。
金持ち家族も父母とその子供たちだけの核家族である。父親がIT企業で身をおこしたようで、特にどちらかの実家が太かったような描写はない。キャンプやガーデンパーティーを好むアメリカナイズされた生活様式からは、ベンチャー成金であることがうかがえる。
友人からもらった得体の知れない岩を何かのジンクスのように持ち歩く貧乏家族の長男。
「幽霊が出るのは商売にいいことだ」と言う金持ち家族の父親。
どちらも迷信深い。
また、韓国社会の中で英語が重要視されていることが分かる。留学経験や外国での勤務経験が高く評価されている。
長男は兵役期間を挟んで4回ソウル大学を受験して落ちており、受験英語の勉強経験を買われて家庭教師となる。
金持ち家族の母親は、ところどころに英語のフレーズを織り混ぜるが、ネイティブレベルの流暢さではない。
家政婦でさえも「エニタイム」といった英単語を用い、家政婦の夫が社長に言う言葉は「リスペクト!」だ。
これにはハリウッド市場を視野に入れた戦略以上の監督の意図を感じる。
貧乏一家はアイデンティティを偽るが、金持ち家族の長男もまた、天才肌の芸術家を装っている。
しかしこの物語は、そのようなパラレル関係に綺麗にはおさまらない。
ちょっと話の均衡が崩れたと思うのは、終盤の襲撃で死ぬのが貧乏家族側は長女だけということだ。運転手の地位を取った父親、家政婦になり変わった母親、そして留学中の友人から金持ち家族の「お兄さん」の地位を横取りした長男とは違い、彼女は直接的には誰の地位も奪ってはいない。トラブルを抱えた年少の男の子に対応できる彼女だけは、金持ち家族が真に必要としていたかもしれない人物である。
この映画には語られていない数々のことがあるのも、想像の余白を残している。
たとえば貧乏一家の長女がどうやって金持ち家族の長男の敬意を得るにいたったか。
貧乏家族の長男が金持ち家族の長女に喩えた花の名前。
貧乏家族の長男が盗み読みした金持ち家族の長女の日記に、何が書かれていたのか。
父親を失った金持ち家族がどうなかったか。
連続ドラマなら「美味しい」と言えるようなそれらのディティールは、監督の言いたいことにとっては些末なこととばかりに省略される。
しかしひとつだけはっきりと分かるほのめかしがあった。
家政婦の夫が豪邸の半地下から送り続けていた「助けて」というモールス信号に、アメリカ製のテントで遊ぶ金持ち家族の長男は気づいていた。それをずっと無視していたということだ。そこに金持ちと貧乏人の断絶を最も感じた。
金持ち家族の夫婦が数年前まで地下鉄に乗っていたということは、成金だということだと思う。清潔な環境へのこだわりにも、新興上流階級っぽさを感じる。
だからポン・ジュノは、二つの家族の違いを所有する可処分所得以外にはないように描いていたのではないか。
最後に貧乏家族の長男は、「根本的な計画があります。まずは金を稼ぐことです」と言う。彼が言う「計画」には、「計画がある」が口癖だった父親のそれと同じくらい具体性も実現可能性もない。
ここで思い出されるのは、金持ち家族が長男の誕生日に開いたガーデンパーティである。あの当日になって立案、計画、実施された会は、金と人脈と時間があるからこそ可能になった。金があるから可能になることは多いが、金を稼ぐために学歴もつてもない貧乏人ができることは少ない。ピザの箱を折る低賃金の仕事か、身分を偽ってあるところから騙し取ることくらいである。それを2時間半見せられたあとで、「計画があります。金を稼ぐことです」と聞かされるとは思わなかった。
格差社会をこういう風にエンターテインメント化していることに批判の向きはあるが、一周回ってようやく常人のスタート地点に立ったかのような結末には驚愕せざるを得ないはずだ。