ガンビー教授

パラサイト 半地下の家族のガンビー教授のネタバレレビュー・内容・結末

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

とうとうオスカーまで受賞してしまって、アメリカの資本が一切入っていないアジア映画がこんな番狂わせを見せるなんて、ポンジュノおめでとうと心底喜ばしい気持ちになった(何ならちょっと泣いた)が、そもそも「ヤバい韓国映画」の象徴的立ち位置であるポンジュノの評価そのものについては、オスカーもカンヌも数年単位で遅い(似たようなことは是枝監督も言っていたと思う)。アカデミー賞には最初から期待していないにせよカンヌはもうちょっと早くてもよかった。それもまあ人々の意識の変化や時代の機運によるものだし、映画賞や文学賞というのは往々にして広義での政治的な流れに左右されるものだし、パラサイトはあらゆる意味で映画祭のなかでは評価しやすい作品でもあるし、まあこのタイミングでの受賞になったのも理解はできるが、決してパラサイトがポンジュノの最高傑作というわけではない(と思う)から、この作品の面白さに衝撃を受けた人はぜひスノーピアサーとか母なる証明とか殺人の追憶とかグエムルとか見てひっくり返ってほしい。アメリカでもフィルモグラフィ遡ってひっくり返ってる人たちがいるのかな。

でパラサイト、まず何よりポンジュノは毎回毎回空間の使い方がうまい。金持ち一家のガラス張りの家と中庭も舞台装置として周到だし、ベッドやテーブルの配置によってコメディとサスペンスを往復するポンジュノ的語り口がもたらされる。玄関から階段を登ってくることによって家のなかへ通じる構造も面白く、貧乏一家の策略にかつがれた‘奥様’がはっと口を押さえて驚く、予告等でも印象的なカットが生まれることになる。
本作では金持ち一家の家も貧乏一家の家もどちらもセットだと言うので驚くが、ロケーションなども含めて空間の中に人間を配置することによって映画の画面に決定的な(運命的な)何かが刻み込まれる、あるいは人の位置や距離によってサスペンスが発生し物語が駆動し始める、そういった手際はますます冴えている。
特に言及したいのは坂であり、2つの家のどちらも坂に面して存在していることによって「上流/下流」のアナロジーそのままにふたつの家が高低差の感覚をもって観客に印象付けられるのも素晴らしい。また端的に言って坂を収めた画面は狙いすましたように(狙いすましているのだが)美しい。
この監督は絵コンテ段階から完全に計算して撮っているためカットが常に印象的である。あえて書かなくても見た人であれば無数の印象的な映像が脳裏に去来すると思う(3回ぐらい見れば頭の中で映画を再現できるんじゃないだろうか)。娘ギジョンが万引きした桃を日に透かし見るように掲げる映像とかいちいち良い。ただ、やはり強烈に忘れがたいのは地下室へ続く階段であり、その暗さを印象付ける映像とか、後半になって物語が転じていくきっかけとなる、元家政婦が異常な姿勢を取っているところなど実写映画ゆえの衝撃であり語りの話法である。あの地下へ続く階段を下っていくことによって異常な世界へいざなわれることになるわけだが、ここはジョーダン・ピールの『US』にも共通する感覚で、僕は映画のこういうシーンに弱い。

家政婦のポーズと言えば、ポンジュノは役者の身体性を生かした描写も巧みで、首にワイヤーをひっかけられてからのアクション、走って逃走するも首からぐいっと持っていかれ転倒する動き、岩を頭に投げつける場面の生々しいショッキングさ……などややショック寄りの描写も印象深い。

総じて全編にわたって(ポンジュノの考える)映画的面白さのつるべ打ちのような仕上がりで、もはやスピルバーグの映画が若い世代の映画監督たちにとって繰り返し画面を見てカット割りなどを学ぶ教科書と化しているのと同様、ポンジュノの映画も次世代の教科書になっていくのでは? という予感すらある。

あと特筆すべき演出では、「におい」という誰でも身になじみのあるファクターを使っているところがうまい。ある年齢以上の大人であれば誰でも貧しい人のにおいに鼻をしかめた経験はあるはずだし、一方で自分のにおいは自覚が難しいというのも効いている。非視覚的でありながら(非視覚的だからこそ?)ここまで映画的に周到に機能する演出というのも珍しいのではないか。しかもそのにおいは「上から下」へ流れてきた汚水によってもたらされるのである。息子が水に浸った自分の足元を見つめるショット、誰でも身に覚えのある生々しい主観的な実感を呼び起こさせるが、そこで汚水はただただ一方向に流れる、決して逆ではない。

金持ち夫婦と貧乏夫婦のキャラ立ちも面白いところで、個人的にはソンガンホの一家が金持ちの家で小宴会してるところ、金持ちの家なのにこじんまりした宴がいかにも貧乏感があってよかった。あとコメディエンヌっぷりを発揮している‘奥様’の、特に流暢というわけでもない英語もいい。

対になっている冒頭と結末のショットについて。結末はあそこまで説明しなくても、と言っている人もいてそれも分からんでもないが個人的にあれはあれでいいと思う。「振り出しに戻った」ようでいて心情も何もかも全く異なる、状況の相似が意味的な対比をむしろ際立たせる。この物語は、一番堅実で、当然で、基本的で、そして‘ありそうにない’プランによって締めくくられる。この現実社会においてそんなことが可能なのか? ラストの余韻がそのままわれわれの社会に呼応して終わるというのも周到なところ。

で、「半地下の家族」という副題の付いたこの話には「地下の人々」が登場する。彼らはある意味で完全にこの不均衡な社会を全肯定しきった、それをむしろ心地いいとすら思っている人々である。だからその不均衡な構造をひっくり返そうとする一家と対立するのも必然の図式。「計画を立てると絶対にうまくいかない。無計画だけが俺の計画だ」と語るソンガンホがやがて同じ境遇に陥ることになるのも味わい深い。
この地下←→半地下の対立構図は面白くて、このアイデアを思いついたことがこの映画の大きな勝因ではないかと思うのだが、隅々まで‘小綺麗’な見た目が整えられた現代社会では、公の場で極度の貧困を目にすることもなくなっている。この不可視化された貧困が、完全に不可視あるいは半・不可視な人々に仮託されている。でもやっぱりにおいだけは金持ち一家の父親が言う「一線」を超えて漂ってきてしまう……

あと地下の人の描写で面白かったのはコンドームを大量に消費していること。あの一瞬だけ挿入されたショットには、「この社会、このままだと緩やかに衰退へ向かっていくのでは……?」という実感があった。ジョーダン・ピールのUSでは「産めよ殖やせよ」の象徴的にウサギというモチーフが使われていたが、ここには社会へ反旗を翻す者たち(US)と、不均衡な社会構造全体を肯定してしまった者(パラサイト)との違いが表れている。

全体としてめちゃくちゃ面白いしエクストリームで奇怪で楽しいのだが、先に書いたようにポンジュノの最高傑作ではないと思っている。この監督がインタビューで「批評家の解釈や象徴の網をすり抜けていく魚でありたい」というようなことを語っていた。その意味はとてもよく分かる、そうでないと映画は映画である意味がないから、ただその言葉にふさわしいのは同監督なら『母なる証明』や『殺人の追憶』のほうで、パラサイトはあれらのように世界の謎めいた陰影に迫り、いかんとも言いがたい割り切れなさを残す映画ではなかった。だからむしろポップさを獲得して多くの人々に受けているのだとも思う。
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