青

燃ゆる女の肖像の青のネタバレレビュー・内容・結末

燃ゆる女の肖像(2019年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

芸術の秋に、と思って鑑賞した。
肖像画を描くことを通して、見つめられることと見つめることの過程を湿っぽく描いていると思う。
挿入曲が極端に少ないので、「顔」と「自然音」のそのままの美しさに没入できた。

モデルを引き受けると宣言し、初めて椅子に座ったエロイーズのギラついた表情が素敵だった。描かれるための顔とは全然違う、内側に温度のある心をもつことを予感させる顔だと感じた。あの顔のためにキャスティングされたんだな!と勝手に納得してしまった。
肖像画を描くことは共同的で相互的な営みだったのかもと思い至った。他者に話を聞いてもらうことで自分が分かるように、他者に描かれることで自分が分かるような。で、描かれている者からも常に対峙され観察されている画家自身がいる。
現在のマリアンヌが教え子に描かれた自身の肖像画をみて悲しそうな自分を見つけたのも、過去を振り返ったことで溢れたマリアンヌの感情を教え子が捉えていたということかと。だから、すぐさま「今は違う」と否定した。現れたのは過去の感情なので。でも過去を振り返って悲しい表情が現れるなら、今でも悲しいんでしょ?と思っちゃう。
相互性、共同的な営みの強調は、つまり、ジェンダー役割や結婚制度が相互的でないことと対比されているのでは?と考えた。結婚、堕胎、職業上の性差別。映画の舞台は中世なのに、全然古いテーマに感じない、つーか今もそんなに変わってないという。
美しいうえ、まさに心を動かしているから二度と同じ表情をすることのない顔は、まるで炎のよう。完璧にその一瞬を捉えることができない不完全さゆえに、燃やしてしまいたい。思い出を忘れたいから、燃やしてしまいたい。それに加え、女の非対称性に怒っている。
だから、「燃ゆる女の肖像」なのか?と考えた。どーだろう。

マリアンヌの「最初の再会」はすっごく嫉妬しただろうなと思う。p.28の悪戯心。
ラストも見事。
思い出のヴィバルディ『夏』(だよね?)にのせて、必死に、かつ、丁寧に見つめてきたエロイーズの顔そのものと、次々に現れる表情たち(炎ですね)。
エロイーズは見つめ返してはくれない。なぜなら、マリアンヌは振り返り、画家としての人生を選んだし、マリアンヌが振り返ることで、エロイーズも冥界に引き戻されてしまったから。すでに永遠に別れてしまったから。

『思い出のマーニー』とは違い、男性性の登場が少ないことが、かえって夢の時間と現実を対比できており、効果的に働いていると思う。が、やっぱり、女の世界・女にしかわからない世界にはしてほしくない。その点、『君の名前で僕を呼んで』は元カノがうまい具合に絡むので良かったなと。
あと、欲を言えば、せっかく「手」に焦点を当てて描いているので、もっと手を絡めた描写が欲しかった。視線の絡み合いは充実していたのに、なぜ? 腕と手じゃなくて、手と手。
テーマが肖像画なので美を追求するのは仕方がないが、醜さも私は欲しい。堕胎さえ美しいのはどーなん。

エロイーズを見つめるマリアンヌを見つめるこの映画の鑑賞者は、跳ね返りとして何を自覚できるのか?

(追記)
批判として「2人がなぜ惹かれあったのか分からない」というものを見た。確かに、唐突に2人の身体的接触関係が始まるので困惑するかも。しかし、これには反論できると思う。
というか、これは愛し合う話であって、恋の話ではないんだよ、きっと。(愛するためには相手の要素より自分がどうあるかの方が大事で…という説教はしないでおく)
エロイーズにとって、はじめて自分を見つめてくれる存在がマリアンヌだった。当初はそれが画家だからと知って失望するのだが(最初からマリアンヌの正体に気がついていたようにも思える)、エロイーズにとってマリアンヌは、肖像画のためとはいえ姉の自殺などの込み入った話ができる、つまり自分に向き合おうとしてくれた人物であることに変わりはない。モデルを引き受けることで、お互いがお互いを見つめ合う存在になっていく。また、選択のできなさを抱える自分と同じように、職業上で性に縛られるマリアンヌに自分と似たものを感じたのではないか。
マリアンヌにとってエロイーズは、笑顔をめったに見せない難しい題材であり、観察眼に観察眼で応答するという妙に挑発的な人物だった。当初は画家としてやりがいのある題材程度だったと思うのだが、描くにつれてエロイーズの内側にある芯を垣間見ることになった。ちょっとした保護者だったのに、相手を見直す経験を繰り返し、自ら施したいと欲求した。もしくは画家としてエロイーズの美しさを手に入れたいと思ううちに、心から願ってしまった。要するに、題材としてのエロイーズに惹かれるうちに、人物としてのエロイーズにも惹かれたのだと思う。
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