開明獣

レ・ミゼラブルの開明獣のレビュー・感想・評価

レ・ミゼラブル(2019年製作の映画)
5.0
フランスが今、大変なことになっているのは、みなさんも報道でご存知のことだろう。平均年齢17歳の移民系を中心とした若者たちが、差別に対する不満を暴力に変えて噴出しているこの大騒乱は、一旦、鎮静化に向かっているようだが、フランス国内での右傾化には拍車がかかり、益々分断が拡がりそうなことが懸念される。フランス地方都市での若年層の失業率はなんと40%にも昇るという。1人の少年が警官に撃たれて死亡し、猛り狂った暴徒は市庁舎やレストラン、店舗のみならず、地方首長の家まで襲うなど、暴力の連鎖に歯止めがかからない。SNS上では過激なフェイク動画や画像が横行し、それぞれの立場のものたちが感情的にそれぞれの主張を煽動する。

本作は、この事態を予見していたかのようである。救いのないこの作品は、フランスという国に対する幻想を粉々に打ち砕いているばかりではない。ここに描かれていることは、私達全員に演繹可能なことなのだから。

ここに描かれているのは、様々な形での狂気の現出だ。年齢、性別、人種、宗教、肌の色に関係なく、この作品の舞台である歪んだ社会の中で、狂っていることが、当たり前であり、生きていることと同義となってしまっている。母国がW杯で優勝した時の熱狂も、狂気の一種であり、その熱はひとつ間違えば危険なものだ。子供に暴力を奮う警官、猛獣で子供を脅かすサーカスの芸人、警官を襲撃する子供達、盗撮に熱中する少年、警官と癒着するゴロツキ、全てが正常ではない構造はどこからくるのだろうか?

この作品の舞台となったフランスが産んだ、ポスト構造主義以降の哲学者で、ジャック・デリダと並ぶ知の巨人、ミシェル・フーコーの代表作に、「狂気の歴史」という書物がある。西洋の歴史の中で、ルネサンス期には、狂気はかつては神に近づいた存在として扱われてきたという。時代の変遷と共に、狂人は忌み嫌われる存在となり、排除されるべき存在となったが、ここでは排除されるどころか野放しの状態で、常態化してしまっている。それは、フーコーがイメージしていたことの想定外のことが、ここでは起こっているからであろう。それは、ミクロ的に多様な権力構造が乱立していて、それぞれが対立している中で、自分達にのみ通用する限定された正義を振りかざす結果として狂気が顕現しているのだと思う。イデオロギーの産む確執は、あらゆるところで起こってしまっているのである。

ルネサンス時代に著され、現代でも広く読まれている書物に、トマス・モアの「ユートピア」と、そのモアと親交のあった、エラスムスが著した、「痴愚神礼讃」がある。マルクスより300年前に既に共産主義的思想を表していたモアの「ユートピア」は、当時の社会を痛烈に風刺しており、「痴愚神礼讃」でも、人間の本質は愚かであると皮肉っている。また、同時期にゼバスティアン・ブランが書いた、「阿呆船」では、様々な階級からなる愚者達が、愚かの国、ナラゴニアを目指して狂気の旅に出る様を描いているが、そこでは当時の腐敗した社会で正気ではないもの達がのさばっている様を風刺している。

かように長きに渡って、狂った振舞いをとめどなく繰り広げてきた人類に一筋ほどでも光明はあるのだろうか。ユゴーの言う、悪は環境によって作られるとするのならば、その環境を作り出している根源そのものである人間に未来はあるのだろうか。

人の善性を信じ、美しさを謳いあげたユゴーの「レ・ミゼラブル」に対する強烈なアンチテーゼなのだろうが、果たしてその二項対立が何を産むのだろうか。答えを提示してくれる必要はないが、単なる風刺であるならば、それこそ前出の書物同様、人間性否定のペシミズム漂う中、どこにも行き場のない閉塞感が支配するばかりだ。

光を見せない作品に自分は惹かれることはないのだろうということを、再認識させてくれた作品だった。それは、自らが闇であるからこそ、光を欲っしているのかもしれない。であるならば、この作品に登場するキャラクター同様、自分も狂気の世界に生きているのであろう。前述した、ルネサンス期に狂気が神に近い存在であるとされたのは、人間は決して神の理性には近づけないから、という悲観的な発想から来ている。神の理性に近づくべく、我々は今も狂気を演じているのかもしれない。
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