平野レミゼラブル

チャーリー・セズ / マンソンの女たちの平野レミゼラブルのレビュー・感想・評価

3.4
『アメリカン・サイコ』の脚本・監督コンビがマンソン・ファミリーを描いた作品。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を観る前の予習として単館&1日1回という少し高い鑑賞ハードルを越えての観賞。
ワンハリも観た上での感想を述べるならば、本当に観ておいて良かった!!歌いながらゴミを漁るマンソンの女たち、シャロン・テート邸を訪れるマンソン、打ち棄てられた映画村を居住地にするファミリー……と事前にこちらで観ていたからこそ、ワンハリで「あっこれチャーリー・セズで習ったところだ!」と早々に不穏な気持ちにさせられたという。

ベトナム戦争の泥沼化による大義ある戦争が薄れていった時代、黒人党が発足してこれまでの人種差別という闇を見つめ直さないといけなくなった時代、アメリカが正義と信じていたものがどんどん揺らぐ不安定な時代、それが1969年である。その中でヒッピーコミューンの「マンソン・ファミリー」が出現。彼らがハリウッドの『顔』であるシャロン・テートを惨殺することによって、半ば形骸化していたとはいえベトナム戦争のアンチという「正義」として認識されていたヒッピー集団の印象はドス黒く塗りつぶされ、「ラブ&ピース」は終焉を迎える。アメリカ社会自体が善悪の区別がつかない閉塞の時代へと突入することになってしまった。1969年8月9日「シャロン・テート殺人事件」は単なるカルト教団の凶行というだけでなく、全米の価値観をも決定的に変えてしまった大事件なのだ。

本作はマンソン・ファミリーという加害者側から、その凶悪事件へ至った経緯とその後を描く。主要人物はシャロン・テート事件と、スーパーマーケットオーナー夫妻殺人も犯した3人の女性。彼女達が収監された現代パートと、彼女達が事件に至るまでの過去パートがザッピング回想されていく。映画原作本の作者が、現代パートにおける彼女達の聞き役になっており、そこで聞く話から「彼女達もある種の被害者では?」となっていくのがやるせない。
とはいえ途中で逃げ出せた筈の道を示したり(奇遇にもワンハリに通じる構成だったり)、収監された現代パートでも稚拙な神話にすがって自己正当化する姿が容赦なく描かれているため完全に彼女達に同情的というワケでもない。そんな彼女達に最大の「罰」も与えられるため、その辺りのバランス感覚が絶妙である。

そして彼女らをドラッグとセックスと暴力によって洗脳していくチャールズ・マンソン(チャーリー)の質感が非常に気持ち悪い。徹底して自己顕示欲が異様に強く非常に稚拙な男として描かれているからこそ「こんな奴によってシャロン・テートの生命は奪われたのか…」とやるせない気持ちになる。
彼の稚拙さは傍から見ると大分滑稽ではある。ハリウッドでのミュージシャンデビューを目指す彼がハリウッドからの音楽プロデューサーを迎えるにあたっての精一杯の接待が「いつものゴミ箱から拾った飯を出すな」「俺の演奏中にとりあえずお前ら踊りながらおっぱい出しとけ」「演奏終わったら誘え。積極的に枕営業しとけ」なんだから。案の定、素人からしてもそんな上手いとも思えない演奏に、とりあえずポロリされるおっぱいの取り合わせがあまりに雑で苦笑してしまう。そんなあんまりなパフォーマンスと生活ぶりを憐れんだプロデューサーに干し草代を恵まれたチャーリーを見た信者の女たちが「契約の前金を貰ったのよ!」と無邪気にはしゃぐのは笑える。

しかし、その後逆上したチャーリーが女たちへDVを振るい、さらにはプロデューサーを紹介したデニス・ウィルソンへの逆恨み殺人計画へと繋がるので笑えない(1969年8月9日時点ではデニスは家を引っ越していた。そして旧デニス邸に越していたのがシャロン・テート。つまりシャロン・テート事件は完全な人違い殺人なのだが、本作ではチャーリーが事前に家にシャロンが越してきていることを確認した上で殺人の指示を出しているので「本当に人違い殺人だったのか?」という疑問が残る。その後も続く連続殺人を見るにハリウッドの"光"に対する妬みが根底にあって、シャロンはその光の贄として殺されたという解釈も出来る)。

画的なグロテスクさは少ないものの、家出少女たちへの生々しい洗脳プロセスが描かれたりと精神的グロテスクは結構キツい。しかし、だからこそ1969年8月9日「シャロン・テート殺人事件」が「アメリカの正義の完全敗北」「暗黒時代の到来」に繋がる出来事だったのだということが丁寧に伝わってくる。
もう上映が終了しているものの、これから先に円盤化されたらワンハリより前に是非観てもらいたい作品。逆に言うとワンハリ観る前にこれさえ観ておけば他に予習はいらないです。本当に。