先日、カラックスの「ホーリー・モーターズ」で、何のために芝居を打ってるのか分からんようなオスカーを観たばかりで、あの芝居の依頼主もシナリオライターも分からないが仕込みも設定も完璧な寸劇で恐らくその場に本当の生き死にをもたらすだろうと確信させるオスカーの妙な力を此度いとも簡単に「スペシャルアクターズ」は脱力させてくれた。半ば迷惑である。
しかし、スペ・アクもまた主人公和人の属する芝居のもう一つ外側があって、それに和人が気が付いて終幕するのが今一つ電位差0な感じで面白くない。ちなみに、オスカーは自分の属する芝居の依頼主を承知しているが、関係者ともどもそれに言及する事は無い。カラックスはオスカーの芝居のための映画をこしらえたようなお惚けに終始しているが、もちろんそんな言葉に流されてオスカーの芝居の意味を突き詰めようとしない評論家と観衆にうんざりしている事だろう。では、その芝居の外側を解明してしまって面白いかどうか?
「ホーリー・モーターズ」に関してはそこからが物語の味わいに気づく路が通じる。しかし、スペ・アクではどうもご丁寧に和人に「真実」にたどり着かれて観衆ともども拍子抜けといった次第である。もちろん、和人がそうと知らずに巻き込まれていた大芝居のタスク達成は結構なんだが、それを包含する我々への物語としては終わってみると何の余韻も感じられないのである。
この結末に対して思い出したのはヒルの「スティング」である。あちらもたばかられて旦那衆が逃げ出したのを見計らい、全て種を明かし詐欺師どもが散って行く。さあ旦那衆が怒って手勢を引き連れ戻って来るのか、みんな逃げおおせるのか、その現場も世相そのものも高いボルテージを保って、敵討ちの余韻を引きずりながら撤収のざわめきから身を避けるふたりにはやはり特別な何かが感じられるのだ。
スペ・アクもよく仕組まれた芝居ではあるが、結局今一つ曲のない平板な作品に終わってしまった。なぜだろう、罠の巧妙さが劇の味わい以上に評されるのだろうか。そしてその巧妙さの披露がないとうまいオチと思われないのだろうか。見て損とは云わない。映画に何を求めているかあらためて気づかせてくれるものならば、である。