平均たいらひとし

男と女 人生最良の日々の平均たいらひとしのレビュー・感想・評価

男と女 人生最良の日々(2019年製作の映画)
4.1
~過去は、人を繋ぎ留めるものにあらず。ただし、今日からの生き方を、更に味わい深くする「よすが」には、違いない。~

思えば、「グッバイ・ゴダール」以来、フランス語発声の映画を見てなかった。それくらいに、地方では、作品に遭遇する機会が乏しい。こんなご時世で、そんな思い付きで、劇場に通うのも、現代社会を生きる者として無自覚かと自問するものの、春休み時に、度重なるメジャー作の公開延期に出くわして、いつも以上にマイナー作品をかき集めて、何とか、凌ごうとしている、地元シネコンの窮地に、多少、貢献せねばとの「建前」を繕って出かけたのでした。

ところが、前述の言い訳なんかは吹っ飛んで、作品に感じ入ってしまったのでした。これからの、人生後半戦の「道標」にもなったらなどと、軽い気持ちで出かけたのが、アムールの国の映画らしい、オシャレ感だとかを超えていまして。こちとら、東洋人の歳だけ重ねた、恋愛アマチュアだけれどもさ。見終わって、有名作品へのノスタルジーに浸るのではなく、「オトナ帝国の逆襲」でのクライマックスでの、しんちゃんみたいに、その先の、まだ見ぬ「オネエさん」との出逢いに望みを賭けて、鉄塔を駆けあがる気力、体力は無くとも、明日に向けて、顔を上げて、今を「味わおう」と、前向きな気持ちにさせて貰いました。

50年以上前は、レーサーとして華々しく活躍していたジャン・ルイは、今は、老人ホームに入所していて、記憶も曖昧になっている。そんな中でも、当時の恋人、アンヌについては、鮮明に、その存在が残っているようだった。そんな父親を見守って来た息子は、獣医となった娘の手伝いをしているアンヌを探し当てて、彼女に、ジャン・ルイと面会して欲しいと乞う。それまで、音信も無かったがアンヌだったが、年相応の風貌に変わってしまったとはいえ、ジャン・ルイと対面した彼女の中には、二人が過ごした日々が蘇る。ジャン・ルイも、名前を明かさずに話しかけてきたアンヌが、普段冷やかし口調で接している、施設の女性職員とも違う存在である事を受け止めながら、徐々に、途切れた記憶が繋がり始める。人生の黄昏時を迎えた二人だったが、再び、胸に灯った、想う気持ちに、相手と過ごす、これからの「時間」を、お互い愛おしみ、渇望するようになって行くのだった。

自分が生まれた直後に発表された「男と女」は、劇映画監督として、それまで、陽の目を見なかったクロード・ルルーシュさんに、カンヌグランプリと米国アカデミー賞をもたらして、興行的にも成功をもたらした、恋愛映画の代名詞的作品です。とはいえ、未だに見た事は、無かったのですが。近い世代の方で、やはり、見てない方も、いらっしゃるとは思いますが、先日他界された、やはり映画音楽の巨匠、フランシス・レイ氏が、手掛けた劇伴、「ダ~バ~ダ、ダバダバタ、ダバダバダ(以下省略)」のスキャットは、耳馴染みの筈。

「男と女」から20年後を描いた、「Ⅱ」も間に挟んでいるのですが。監督と、音楽担当(遺作になるそうです。)に、アンヌ役のアヌーク・エーメとジャン・ルイ役のジャン=ルイ・トランティニヤンは、勿論の事、なんと、アンヌの娘とジャンの息子役の方達も、当時子役だった二人が、同じ役で出演して、誰かが役を引き継ぐということが無い、奇跡の再結集を果たしたのです。そして、ジャン・ルイが、アンヌと別離後結婚した相手との娘役として、モニカ・ベルッチ姐さんが、華を添えてます。

作り手の思い入れに加えて、世界的な活躍というキャリアの輝かしさは勿論、私生活の浮き沈みも背負った演者の個人的背景までも、この50年振りの「男と女」には、投影されている。「男と女」のⅠ、Ⅱを見ていれば、感慨も3倍増しなのかもしれないけれど、見ていなくとも、誰にでも見られます。アンヌとジャン・ルイの回想や記憶の断片として、Ⅰの二人の若かりし頃の映像が、活用されていて、見ている側も「共有」が、出来る仕組みになっていて、「一見さん」にも、垣根が低い作りとなっていますので、作品は、人を選びません。ただし、見ている方本人の人生経験とか、感受性によっては、無為なひと時で終わってしまうかも、しれませんが。

文化、風土の違いは拭えないものでしょうけれど。例えば、冒頭の、幾ら父親が、「退行」しているからと云って、息子が、父親が、昔、交際していた相手の元を尋ねるとか、我々からしたら、考え難くはないでしょうか。その息子も、アンヌの娘も、自分よりも、若干の人生の先輩にあたるのですけれど、過去に、各々離婚経験があったりする背景のうえ、終活実行間際の親たちが、明日への希望を再び灯しつつある流れで、互いに共感を寄せあうとか、アムールの国ならではの部分もあるものの、フランスならではとか、他所の国の事では、片付かない。描かれるものは、誰にも思い当たるものです。

面会に訪れた、歳相応に「艶」と「気品」を湛えたアヌーク・エーメさんが、何気なく、髪をかき上げると、それまで、ボケの片鱗を覗かしていたトランティニヤン氏が、「そのしぐさは、素敵だ。生涯、女性を愛して来た、あなたの様なひとを」と、彼女にポツリと語って、アンヌも、施設の女性職員に、「いつ、俺のベッドに来るんだ」って、セクハラ紛いの挨拶をしているボケ老人によって、心持ちは、「乙女の頃の様に、ドキドキした」と、老いゆく身体とは別に、解き放たれる。

50年前に出逢って、情熱的な恋愛をした二人が、今また、再び、こうして想い合うのは、原点である「男と女」の作品と、演ずる名俳優たちへの監督の「敬意」を感じると共に、年寄りだからとか、親らしさだとか、過去から培われた「概念」に捕らわれる事無く、目の前の事を、味わって感受しなさいと、偉そうな説教のテイではなくて、50年前の昔と、今を軽やかに行き来する本編を見ているうちに、すんなりと入り込んで来る。
下手な文章の脈略が、更になくなるけれど、劇中のアヌーク・エーメさんの、「独りで居た時は、自分の死が怖かったけれど、二人で居ると、相手の死が怖い」ってセリフに、自分も引っかかる様になって。

50年前と違って、丸まって、ちっさくなった二人が、ノルマンディーの海岸を歩きつつ見ている水平線に陽が沈む瞬間、一瞬光の色が変って「緑の光線」を放つ様子が、収められている。そこに、出くわさなければ、見られない光景。今、その時に得られるものを、味わってほしいとの思いが込められているかのよう。

映画の公式HPに、ライムスター宇多丸さんが、コメントで出典を教えてくれていましたが、「男と女」とは別のルルーシュ作品からの、パリの街を疾走する車内の視点の画像が、終盤挿入されていて。それが、昔の映像にしては、結構、疾走感があったりしますが、朽ちかけた身体からの「自由」を謳っているかのようで、物凄く、解放的な心持で席を後にすることが出来ました。見られて良かったです。

いつも以上の冗長な文章に、お付き合いいただき、ありがとうございます。
シネプラザサントムーン 劇場⑤にて。