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朝が来るのニューランドのレビュー・感想・評価

朝が来る(2020年製作の映画)
3.5
☑️『朝が来る』及び『37セカンズ』▶️▶️
誰にでも、これは観てみるといいよ、と云える作品は稀だ。それが二本、真っ正面から、人間やその繋がりの条件をくもりなく見据えた、誰もが涙ぐむ瞬間を、持ちかねない番組。渾身の2作。
海外でより評価の高い作家、河瀬の、最高作かそれに近い作と断言出来る新作は、河瀬タッチは確実に健在ながら、原作ものという以上に、自分を超えた要素を迎え入れた成果が成功に寄与している気がする。時制や対象がボコッと入れ替わり(リアクションカット挟みも、1人多い、永作のリード作と思い観てたが)、往き来する大胆な構成は、意識の流れならぬ、人間の生理·その相互干渉の流れに沿っていて(アイラインのひきかたで、少女が内外共のどんどん変容してくが表される)、それを理解していこうとする、他者への優しさの現れの、謝意の様々なかたちは、涙を誘ってくる。共同脚本の、天才高橋泉の力がひとつ想像される。
経済事情からくる新藤システムを超えた、撮影期間、役者らを役の環境に縛り付け、役作りの計算すら放棄させる、(体育会系的)「河瀬組」完全主義は、語りの細部の不効率·うっとおしい正統病も招くが、作者以上に観客と時代を分かつを培ってきた個性的な役者らの呼吸がそれを打ち破っている。2つ目の勝因。堀内·利重·中島·新·永作、とりわけ浅田、そして十代の蒔田。永作と蒔田の、渾身の台詞·声·表情が、激しくやがて穏やかに作品を括る。知られている『砂の器』の加藤嘉に匹敵し、より虚構ドラマから解放されている。
出産時の声から海面·孤島·鳥·岩上の少女·陽光と樹木や枝葉、の不可解連ね(後でも繰り返されもする)から立木ごしマンションの、一家族の話となる。大体に過去や内的イメージが唐突に入り、細かい経過を省きもう次へ流れ行ってる語り口だが、不妊夫婦の「特別養子縁組制度」を知って我が子を得る過程·そして成長後小学校入学前の今の様子が描かれてく。それは全体の1/3で、コロッと切替わり14才の女子中学生が養子になる子を出産迄が全体の1/5位のスペースで説明され、以降は二つの場のこれ迄と現在が交錯し·切り結び、2人(組)の再会とその前後が、核的に何度か(欠落抱えて)現され、その纏まり形でラストに届く。
全編「ごめんなさい」やそれに類する謝意の言葉が繰返され、相手や傍の者は「どうして謝るの?」といぶかる。子が将来的にも無理とわかった時、子を受け渡す時、自己責任でなくも·周りに負担をかける時、自棄で子や金の返還を求め·自分を恥じた時、内面の歴史による変化を察せられなかった時、自己を他者の価値に譲ったそれらの無力·無私からの美しさ。「親が子どもを探すのではなく、子供が親を見つける制度。産んでも育てられない親に対し、育てられる覚悟·環境は揃ってる(のに、授からない)親が役に立てる制度。出産時からすぐ親権移動、早い時期の真実告知、片親は育児専念、の条件」の育ての親の選定、産みの親は出産までの精神·身体の時間の貴重を専用寮で身に染ませる、広島の瀬戸内海の小島の施設『ベビー·バトン』。「大切な場所です。有り難う」「此方こそ」と少女と代表の間の会話がある。「2人(組)で産み·育て(を分担し)た、大事な子です」と育ての親は強い思いで宣言し、係わり来るそれに値しないは偽者と云う。「~愛おしい人~必ず君に辿り着くよ~」と様々な形で繰返される主題歌、クレジットの後、ラストシーンを継いで地の声が続く「逢いたかった」。
アマチュア出身特有の素朴映像主義もまた固有の、河瀬タッチで、陽光を柔らかく可変的に広く捉えて、望遠CUめ(対応)や手持ち揺れめが、主たる印象だが、気づかれず、フィックスや、縦や廻るめや横への(フォローや無人)時にスタティックな移動が、埋め支えてる。音楽も緩みを塗り潰し、繰返され、リズムを超えて命の根となる(主題)歌。それでも、指の輪に入り来る陽光、白く光り張った球体に対す子、のシンボル映像、過去の細かい説明的イメージは蛇足·余計な挿入で、摘めた対象の隙なし·今の並列を弱める。
「(出産は)災難だったな」と声かけた親戚に、少女は反射発作的に、張り手·乗っかかりのエスカレート「(体面丈で、)心配などしてないくせに」。友の保証人にされ·払った後、取立に「どうして私ばかりが··」「馬鹿だからじゃないか」「終わってない!」「怖っ、ハハ」の存在の振り絞り。「貴女は誰ですか」と毅然と自己を誇り·退がらせた相手に、顔を歪め悔い·無条件に、「ごめんなさい、判ってあげられなくて。朝人、(いつも話してる、ここと海でも通じてる)‘広島のお母ちゃん’だよ」 と一気通じてく生の苦と流の通底 。「なかった事にしたくない」書いて消されてたを見つけ、あらゆる個人史·その係わりを結びつけてく循環へ。信念·固定観念から、人物を判別出来なかった、理解が及ばなかった事、そして「広島のお母ちゃん」という概念の抽象度·距離の不可思議な手応えが、特に残ってく。制度の正しさ·妥当性よりも、それに対し向き合い、使い引き入れる側のあり方の問題である事が伝わってくる。ただ、細部のニュアンスの表現は高橋泉演出の方がより正しかったのでは、の気もする。
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複雑なデリケートなニュアンスの『朝が~』に比し、『37~』は、記憶イメージ挿入や創造イマジネーション半アニメシーン介入、スタティック美学的な横移動、等はあるが、基本、物怖じしない、疑うを知らない、ストレートなイメージ·描写が、無邪気に、現在的色や光の塗り込め、観光映画的能天気さ、ロー移動やカッティングのアニメ的明解さ、でデリケートを置いてって、微塵も暗さに戻らず進んでいくような、無神経と云えなくもない映画である。しかし、迷いにすくわれない緩めない足取り、の平明さは、涙も忘れてた感動を気づかないうちに与えてくれてる。望遠CUでの感性的生理的日常の押さえ·重さ·予感と、ペタペタ塗り込められる感の社会と機構の囲みの均質さが、淀みなく組まれ歩んでく。
出産時の一時呼吸停止が残した脳性マヒでの車椅子生活の、母が多く付きっきり介護、漫画アシスタント(実質作家も、ビジュアル·メディアに向いた友人が隠してる)で稼ぎもある、23歳の娘。その心のポジティブさや気のまわしは、気を使う一般健康人が、驚き認識を改める程、細かく躍動している。しかし、一般社会の価値観が、閉ざしての敷居の高さは存在し、様々な理不尽な制限が内外に残ったままの現況を、はっきり意識してくる。
「子供扱いしないで」「ママがいなくちゃ何もできないでしょ」「ママがやらせてくれないだけジャン」/「そう、家出したの? それならトコトンやる事ね。でも気が済んだら、戻ってママにチャンと報告するのよ」/「父は自由人だった。私には好きな事だけやれと」「母は超過保護なんです。でも、私がいなければもっと違ってたかも。2人はどうして別れたのかなぁ」「きっと誰よりもユマチャンが大事だったからよ···ごめん、私は妹の存在知ってたけど、障害あると聞いて逢いにいけなかった」「日本に戻ったら、逢いに来て」「うん、じゃまたネ」「またネ」/「生まれて37秒呼吸が止まって障害が残った。私が先に生まれてたら。でもユカさんに障害が出たかも。やはり、これでよかったんだ」/「藤本さんの(叱咤の)おかげで、色々経験(する決意も実践も)出来て、お礼をと」「SEXも? ふぅん、そう。作品は?」「ええ、でも望まれるようなのは」「見せて、面白い、いいじゃない」
主人公の、垣根持たない性格から、色んな無私の協力自然に集まっての、いっときの家出と様々冒険譚···SEX(完遂せず)·飲酒·クラブ·父や姉に逢いに行く旅。その拡がり·充実は、内容を超えて、此方に伝わってくる。
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