岡田拓朗

猿楽町で会いましょうの岡田拓朗のレビュー・感想・評価

猿楽町で会いましょう(2019年製作の映画)
4.4
猿楽町で会いましょう

その嘘は、本当ですか?

想像を絶するほどによかった。
『寝ても覚めても』『愛がなんだ』『花束みたいな恋をした』辺りを彷彿とさせる徐々に思い起こされる共感性や感受性を軸にした人間の描かれ方と絶妙な異質性に魅了される。

修司とユカが出会うところから始まるこの物語は、2人でいるときの現在のユカからは想像し得ない姿が、話を追うごとに明らかになっていく。

外向きは天真爛漫で明るく純朴に見えるが、関わるほどに不思議で掴みどころがない田中ユカという女性に、実は人間のあらゆる要素が詰め込まれている。

意味深な言葉たちは実は他人からの受け売りで、こうありたい自分をなんとか保とうと無自覚に周りを傷つけ、自分中心に周りを振り回していく姿は痛々しくて、見ているだけでしんどくもあるが、どこかでそれを羨ましくも、思い当たる節があるようにも感じさせられ、総じて主人公である2人に感情移入しながら、寂しさや切なさがこみ上がらずにはいられない。

薄っぺらさの中に隠れていて、表面には出てこない彼女のあらゆる姿が、彼女自身の中に隠している嘘として、どんどん露わになっていき、そこに痛々しさや人間の底知れなさが浮き彫りになっていく。

夢や理想、なりたい姿が明確なようで明確になっていないユカ。
でもぼんやりとそれはあって、彼女の現状を取り巻く今に満足し切れなくて、そんな思いが見境なくあらゆる形で発散されてしまう。

人はその人と一緒にいるときに見せている姿が、(意識的だったとしても無意識的だったとしても)全てであるとは限らない。
おそらくユカは、あの掴みどころのなさから無意識的に、無自覚に、いろんな顔を持っていたんじゃないかと思った。

自分が周りからどう見られたいか。どんな人として存在していたいか。
決して消すことのできない承認欲求や誰かに求められていたい思い、この人よりは上でいたい不健全な優越性、それ以外にもあらゆる理想とするものがそこにはあって、それらは自分の営むべき生活の範疇だけで満足し切らないこともあるだろう。

関わる人によって、その人に対して何を求めるのか、どうか関わっていたいかが異なってくる部分もあって…そんな人間の目を背けたくなるような嫌な部分が、ユカを通して突きつけられる。

もっと単純に生きられたら、大切な人に不信がられることもないだろうし、向けられる期待を裏切ることもないだろうし、優しさが偽善であっても前向きに受け入れられるだろう。

でも実際にはやっぱり人間は複雑で、いろんな思いや感情を持ちながら、時に衝動的になることもあるし、それぞれが(関わる相手が知らない中でも)移り変わっていくものだから、もうそれはそういうものとして受け入れ、付き合わざるを得ないだろう。

いっそのこと本作に出てくるような思いや感情、そして衝動を一切感じなくなったら、それらを何も感じずにただただ受け入れて許容できるようになったら、そこには優しさだけが残るのだろうか、ただただおもしろみのない人間になってしまうのだろうか。

出てくる人たちのあらゆる言動から、人が人に対して抱く思いが、一方通行で完結できればいいのにとさえ思えてしまう。

その中でも修司は終始とても優しく見えたけど、それがゆえにユカからどう思われていたのか、どう見られてたのかを想像するといたたまれない。
それはまるで『寝ても覚めても』の朝子→亮平のようで、優しさが簡単に報われない人間の想像の範囲内に収まらない複雑性や関係を維持し続ける難しさを感じた。

そして、恋愛関係をベースに描かれるあらゆる人間関係における曖昧さやそれぞれの思い違いや状況変化から生まれていく見えない距離が、何ともリアルで生々しい。

隠し続ける嘘は、いつのまにかそれなしでは生きられなくなっていき、それが本当になっていく。
本当のことまでもが、相手に信じられなくなっていってしまう。
理想が現実に蝕まれていき、打ちひしがれていく様子を見ていると、ユカのあらゆる言動に対しても闇雲に否定はできず、むしろ寄り添っていく必要性を感じた。

あらゆる感情が渦巻いて、一つ一つを切り取ると理解不能であっても、ちゃんとその人を追って見ることで、その人が見えていき、そこには無数の人間の姿がある。
そんなことを考えさせられた映画だった。

P.S.
本作が初見である石川瑠華さんの演技が凄まじくて、これからの飛躍に期待したい。
『寝ても覚めても』の唐田えりかさんのときと同等、いやそれ以上に同じ感覚の衝撃が強い!
岡田拓朗

岡田拓朗