Ritz

生きるのRitzのレビュー・感想・評価

生きる(1952年製作の映画)
5.0
<いまに生きる>

今、この瞬間を私は生きているだろうか。…なんていうセンチな自問自答は私生活をいとなむ上であまりしなくなくなった。いや、実のところそのようなことに関心を持たなくなった、といった方が正しい。なぜだろうか、別段の理由はないと思う。だが半ば諦めをもって人生を見据えているという事実はある。大抵の出来事は暇潰し同然に思えてくる。そんな空気が社会に漂っているのをうっすら感じることもある。だけど私は生きている。そのあるべき命を感じずに。ただ、ただ生き長らえている。でも、果たしてそれは、本当に生きているということなのだろうか…

「生きる」は1952年に東宝より製作・配給で上映された、黒沢明監督13本目の長編映画である。

一人の人間が胃癌の宣告を受ける。余命は半年である。さて、この人間は残りの命をいかにして生きようとするか。というテーマのもと、それと平行していくつもの社会風刺的モチーフが掲示される。これらが絶妙に物語上で絡み合い、交わることでストーリーが展開していく。

主人公の渡辺勘治は病院で自分が胃癌に侵されていることを知る。妻を早くに亡くした後、残された一人息子のために人生のすべてを捧げて生きてきた。勘治はとにかく死の恐怖を息子に打ち明けようとする。だが親子の絆とはいったい。妻を拵えた息子は父親にまるで興味がないといった様子で会話もどこか事務的、ついに病を告白するタイミングを逃してしまう。当時の面影を求め執拗に父子の愛が緊密だった昔のことばかりを思う回想シーンが実に生々しく切ない。寝仕度を整え、目覚まし時計のネジを巻く。まるで自らに残された時間を確かめるように。ふと目にとまったのは勤続25年の賞状。仕事に燃やす情熱などもはや無く、地位を守るためだけに事なかれと過ごしてきた日々。そこでようやく彼は今まで積み重ねてきた時間の「無意味さ」に気付く。

戦後、日本は豊かになった。そして傲慢になった。今まで押さえつけられてきた自由や欲望がここにきて一気に爆発したのである。そしてそれはお国のためにといった「集団思想」から自分のためにという「個人思想」へと歩みをはじめる利己主義時代の幕開けでもあった。大家族制は徐々に廃れてゆき、地方に親、都会に子有りといった核家族化が進んだ。そして権力こそ絶対とした官僚主義の蔓延は職場における上下関係を絶対のものとした。黒沢明は急速に変貌をとげる日本社会に対する危機感と批判を、無情にもこの物語の主人公に浴びせかけたのである。

しかしこの映画。ここまで徹底的に"悲劇"をみさせながら、驚くことに最後には見事なまでの命の讃歌を歌いあげている。金や欲に身を任せても結局死の恐怖からは逃れられないことに呆然とする主人公。まさに身も心もどん底まで叩き落とされた渡辺であったが、ふと彼のもとに一人の女性が現れる。職場の部下である彼女はみるからに活気と生命力に溢れており、渡辺は自らの生きる意味を探るべくその覇気の秘密を知りたいと思う。しかし彼女はただ働いて寝ているだけだという。いよいよ絶望の縁に立たされた渡部であったが、彼女が呟いたある一言によって新しい人生を踏み出す決心をする。

黒沢明はこの作品をつくるにあたって次のように述べている。

‐"この映画の主人公は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである"‐

まさしく「生きる」は主人公、渡辺勘次の変身と蘇生の物語である。そしてそれはある種の献身と犠牲によって達成された。彼は残り少ない命を(他人のために)燃やして死んだ。その顔に痛みや恐怖の色はなかったはずだ。映画は後半、劇的な場面の変更をむかえる。ここでようやく物語は悲劇的呪縛から解放され、さらに監督が掲示したすべてのモチーフにも終止符が打たれる。だがこのラストに渡辺勘次の姿はない。これは何を意味するのか。彼は死んだ。しかしただ死んだのではない。死と対峙することによって知った、生きる意義を噛みしめながら死んだのである。


いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを


やればできる。そう、やる気になれば。まずは他人を思いやることからはじめよう。そしてその人の幸せに自らも幸福を感じることができたなら。
いま、私は生きていると感じることができるはずである。