エクストリームマン

アルプススタンドのはしの方のエクストリームマンのレビュー・感想・評価

4.7
迷宮入りだね…

原作となった高校演劇の脚本の完成度、舞台版キャストのアンサンブル、そして城定秀夫という語り手によって映画としての完成をみる本作。原作の高校演劇にあった得も言われぬ「良さ」を殺さないため、甲子園を題材としつつ一切グランドも選手もスコアボードさえ映さないとした選択の確かさや凄みを感じつつ、しかしそういった技法や手法に先立って、画面に焼き付けられた“作られた”魔法のような瞬間と静かに広がってゆく世界の奥行きにただ見入り、感じ入る75分間。

舞台装置をアルプススタンドに固定すること、また同じ画になるので切り返しや実景を極力入れたくない(監督談)という制約?がありながらも、本作は画的なダイナミズムや作品世界の広がりを失っていない。それどころか、一度として画面に登場しない「園田」や「矢野」のこれまでやその後を自分はよく知っているという錯覚すら覚えるだろう。最初は「はしの方」を選んだ4人と同様に、観客にとっても背景だった打撃音や応援の声、ブラスバンドの演奏が、やがては(全く見えないにも関わらず)一瞬も見逃すことのできない試合になっていく。それは、キャラクターたちが向き合い、乗り越えていくべき問題が物語の進行と共に立ち現れていくことともリンクしていている。「しょうがない」という言葉に端的に現れる諦念の輪郭が、見えない試合の展開との一体化によって確かなものになっていく様は見事。

あまりにもハッキリとクライマックスが見えている、即ち「主要登場人物たち全員が立ち上がって全力で試合を応援する」ことがはじめからわかっているにも関わらず、訪れるその瞬間に湧き上がる爆発的な歓喜や抜けの良さの勢いを「展開が予めわかっていること」が全く邪魔しないところに、城定秀夫の監督としての確かさが顕れていると思う。また、映画がはじまってすぐに、宮下恵(中村守里)の笑顔や顔のアップがクライマックスの見せ場になるだろうことも察することができるが、やはりその瞬間が訪れた際に得られる感覚は、予期したものがその通りにやってきたという手触りでは全く無くて、積み重ねられた実直な映画の魔術にただ魅せられるのである。後半の(前景に応援席が映る程度の)引きのカットで映る宮下恵の何気ない笑顔がとてもいい。

この物語の導入であり、「最後に立ち上がる」キャラクターである安田あすは(小野莉奈)の纏った気だるさや倦怠、諦念の結晶である「しょうがない」が物語の根幹をなすテーマだと明らかになるのは中盤以降だが、その芽は最序盤から周到に蒔かれていた。本作は、ある意味で、安田あすはに興味もなかったはずの野球の試合を応援させるまでも物語とも言えるだろう。気の抜けた態度の奥に、「しょうがない」という言葉の向こうで、実際は全く諦めきれていなくて、騙しきれない自分や(自分自身が「しょうがない」と諦めて次に進んでいるつもりになっていることを)いつまでも気にしている田宮へのちょっとした苛立ちが垣間見える「間」の絶妙さ、そのバランス感覚が、即ち舞台と映画の間なのだろうか。自然になりすぎない自然さを一番体現しているキャラクターだ。

安田あすはと対をなす田宮ひかる(西本まりん)は、どこか察しの悪い、のんきなキャラクターに見えるが、他者の心理に人一倍敏くもあって、言葉とは裏腹に全く煮えきっていない安田あすはを気にかけすぎてしまうのもその心根故だろう。他者を必要としていない(と思い込もうとしている)宮下恵とスタンド裏で打ち解ける場面の、理屈でなく自然と察する/寄り添う姿が印象深い。また、主に試合展開をセリフで説明することを担うキャラクターでありつつ、はしの方4人の中で最初に“突破”して声を張り上げるところのねじれみたいなものも興味深かった。勿論、それは彼女が日頃から安田あすはが平気な顔をしつつ上げていた声なき悲鳴に決然と立ち向かう決意であり、劇中の積み重ねから導かれる流れに沿っているものなのだけど、彼女が寄り添うばかりではなく、察した相手の心情をぶつける勇気を得た瞬間の描かれ方、その清々しさに素直に感動した。

フェティッシュを凝縮したような造形の宮下恵は、キャラクターとしては他3人とは別の次元を走っているような形で、映画版から実体あるキャラクターが追加された久住智香(黒木ひかり)と呼応するキャラクターである。にもかかわらず、画としては他3人と合流した4人並んだ構図がこれ以上なくハマっていて、物語としての合流のさせ方も上手いのだけど、それ以上にキャラクターの出入り、並び替え、入れ替えで「ごく短時間に4人の横並びが自然に見える」ようにする技術に痺れた。宮下恵は、ある時点までこの物語の神=矢野に近い存在だと思われているが、彼女もまた「しょうがない」を抱えながら(内で煮え滾らせながら)生きていることが明らかに。前半は俯く顔、こわばった表情、頑な態度が目立つが、それはクライマックスに向けた胎動のようなものである。繰り返しになるが、出てきた瞬間から、彼女が笑う場面が映画のクライマックスに来ることがわかってしまうのだけど、そのわかっている瞬間の訪れこそが最高のカタルシスになっていることが、本作の素晴らしさだろう。

本作の(比較をちらほら見かけた)桐島〜らしさを担っている藤野富士夫(平井亜門)は、元野球部であるものの、野球の試合展開の解説役というよりは矢野や園田の人物像の語り手であった。ただ、彼と(桐島〜の)菊池宏樹は結構違うキャラクターで、菊池に対して藤野はあまりにも潔く、また素直なキャラクターになっている。藤野からは無駄な努力を続けているようにしか見えなかった矢野が、「しょうがない」をはねのけて大舞台に立つ姿に、(諸々を経てではあるが)声援を送れるようになるのは、元来の素直さも手伝っているように見えた。

登場時は謎の熱血ぶりに窒息しそうになる英語教師厚木も、一見して才色兼備で完璧な久住も、そして久住を取り巻く吹奏楽部の進藤(平井珠生)や理崎(山川琉華)も、とにかく出てくるやつが全員好きになるし、観終わったあとでそれぞれの人生をポジティブに想像したりもできるところが何より素晴らしい。ラストの切れの良さもまた。「ストップモーションで終わる映画は名作」の法則がまた証明されてしまった…

元になった高校演劇も、2019年の舞台版も是非観てみたい。再演は難しいかもしれないが、せめて映像化を何卒。