わたしはとにかく動物が好きな子供だったけれど、とくにアーネスト・トンプソン・シートンの動物記が大好きだった。ロボ、銀狐、ネズミとガラガラ蛇、ギザ耳うさぎ、サンドヒルの牡鹿、裏街の野良猫、ドミノ、クルートー。当時読みながらどんなことを感じていたのか、今ははっきりと思い出すことはできないけれど、毎年シートン動物記で読書感想画と感想文を提出して、貸出カードがわたしの名前で埋まってしまうほど読み続けた話のタイトルとあらすじはいまだに記憶している。中学校に上がって美術部に入部した。質問されると何に対しても頷くか首を振るかで返事をしていたわたしを、顧問の先生は「あかべこみたいな子やわぁ」と言ってよく笑った。部内に一人しか居なかった三年生の先輩は、わたしが入部したばかりのころ、病気で入院していて、その会ったことのない先輩に、絵を付け加えた手紙を書くことになったとき、わたしは「シートン動物記に出てくるチンクという名の子犬です」と説明書きをして、色鉛筆で子犬の絵を描いた。特別厳しいわけじゃなかったけれど滅多に生徒を褒めないその先生が、あとからわたし一人を呼び出して、「あったかいね。海ちゃんのが、一番よかった」とわたしの頭をよしよしと撫でてくれた。先生はシングルマザーだった。一度先生に電話をかけたとき、幼い男の子の声が出て、「おかあさんは今運転中なので出られません」と言われて、「はい。わかりました。」とドキドキしながら返事したのを覚えてる。わたしはあの先生が大好きだった。ほとんどあこがれにも似た気持ちで、先生の「いいね」と「かわいいわぁ」だけを待ち望んでいたし、ほとんど愛情にも似た気持ちで、笑ってくれるようなことが一つでもできないだろうかと目で追っていた。あの気持ちは、今思えば、おとぎ話の続きを待ち、少しでもたくさんともに笑いあおうとする、娘が母に向ける愛情のようだった。先生は母に似ていた。気が強いのに繊細で、華奢なのに立派で、女の手のたった一組で、子供を抱きしめている、わたしがこの世で一番目をそらすことのできない美しい人種だった。わたしはあざやかに青い刹那が永久にひとを愛するのだと身を持って知っている。放課後の廊下で、唐突にぼろぼろと泣き出してしまったわたしを、先生は黙って、小さな子供を宥めるみたいに抱きしめてくれた。あのとき、このひとにこうされるのがわたしだけならいいのにと思った。あのとき、他者のすべてを尊いと感じる気持ちをわたしは知った。あのひとが隠していた弱さも、悲観していた過去も、目をそらしていた未来も、わたしが持っている記憶と重なりながら、春の日の花びらや冬の日の牡丹雪のようにひらひらと、はらはらと、心の真ん中に落ちていった。恋とか愛とかそんなことばを使ったことさえなく、誰かを好きだと自覚する方法も知らなかったわたし、ただそのきれいな情景を、奇跡のようだと思った。