YSK

映画ドラえもん のび太の新恐竜のYSKのレビュー・感想・評価

1.0
これを見て感動し心揺さぶられ涙を流した人がいるということに驚きを禁じ得ないのですが、本当ですか?正気?「『ドラえもん』を見て泣いた」と言わないと村八分にあうとか、「『ドラえもん』を見て泣いた」と言わないと誘拐された息子か娘が帰ってこないとか、「『ドラえもん』を見て泣いた」と言わないと一族郎党皆殺しにされる呪いにでもかかっています?
およそ1週間前に見た『糞糞の糞』以来となりますが、心底気持ち悪くありません?正直私は吐き気を催しましたし、こんなものを子どもに見せたいとは思いません

とりわけ酷いと感じたのが、キューという新恐竜を彼らが生息していた時代の彼らの群れに連れて行ったところ
キューの棲み処で群れの親玉に傷つけられたキューを見た糞が「なんで…?キューが飛べないから…?体がみんなより小さいから…?なら、僕が必ず、キューを飛べるようにしてみせる!」と宣言し、キューを飛ばせるために何度も何度も高いところから飛び立たせ、そのたびにキューは地面に叩きつけられ、傷つき、ボロボロにされていきます
そしてこの訓練という名の虐待からキューが逃げ出すと、落ち込む糞にしずかが寄り添い「のび太さんはキューちゃんの気持ちがちゃんと分かっている。痛みや苦しみも分かっている」え?本当に?「イヤだ」と思ったから逃げたんじゃないの?
結論からいえばキューは空を飛べたし、それは「恐竜から鳥への進化の瞬間だ!」と手放しで称賛されることになります、これが例えば何度地面に叩きつけられながらも何がしかの気づきを得て、何がしかの工夫を加えたことで結果として飛べたのならばその理屈がわかるものの、体の小ささやぎこちない翼の動かしかたに即したキューのための訓練をするのならばともかくとして、「他の皆と同じように飛ぶため」にただ努力と根性とスパルタのみで成長を果たしたという描写は『ドラえもん』には相応しくないのではと思うわけです

そもそものび太は勉強もできないし運動もできないものの、そこに思い悩み苦しむことなく「ひみつ道具で解決」しようとするキャラクターじゃないですか
「もうすこしうまくなってから練習しよう」というなまけ癖を絵にかいたような少年がひみつ道具の力で勇気を出したり夢を叶えたり、そして時にはしっぺ返しを食らうのがフラッシュ時代の『ドラえもん』だと思っていましたが、そこを変えてしまうのはそもそも『ドラえもん』でやるべきことではないように思います

中盤で隕石が降り注ぎはじめる最中、タイムパトロールの保護に抵抗し我を貫こうとする糞が捕縛されそうになった際には「これは面白くなってきたぞ!」と思ったものですが、情に絆され勝手に神格化し彼らの行く末を見守るなどと糞みたいなことを言い始めたのでものすごく冷めました

絶対に忘れないようにもう一度だけ言います、糞です!
YSK

YSK