アラサーちゃん

ブラック校則のアラサーちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

ブラック校則(2019年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

ちっぽけな革命家と、鼻の長い思想家の、こんな寓話。

「ブラック校則」は、映画とドラマ、更にはHulu版とどれにとっても伏線の多い脚本ではあるが、実際に映画を観たところ、ドラマ版からの伏線はほぼ見受けられなかった。本編の序盤でばら撒かれた伏線が、クライマックスで一気に回収されていく、といった完全に映画だけで独立したストーリーになっている。

ただ、ドラマ版の中で回想するエピソード自体は、映画版と連動している。察するに、〝登場人物のひとりにスポットを当て、人物像やバックボーンを掘り下げる〟と同時に〝映画の中で描かれるエピソードの肉づけになる〟という意味合いを持っているように思う。
この二重構造ないし三重構造は、二時間弱の中に収まりきらないエピソードを細かく掘り下げ、状況や水面下の補足説明ができる、という利点を持っている。ただ、映画はドラマ版に比べテンポよくストーリーが進んでいくので、ドラマ版でやっと描かれるディテール部分に関しては「動機づけが希薄」「盛り上がりのパンチ不足」を感じてしまうマイナス点もあった。

この物語のテーマは「自由」、そしてその裏には「抑圧」がある。かの有名な「フランス革命」を、つい想起してしまう。
封建的な社会制度に疑問を抱き、人間性の解放、特権階級の排除といった啓蒙思想の広がりによって引き起こされたフランス革命。それになぞらえたオマージュのような作品だと思えば、いつの時代も人間は「自由」と「抑圧」のはざまで立ち上がる勇敢な戦士だったのだなと改めて気づかされる部分がある。

映画全体の感想として、まず、大衆向けの商業映画らしくないところがいいな、と思った。アイドルを使った商業映画は得てしてチープな作品になりやすいし、大規模な製作費をかけた作品というのも若手を起用して作るとなると肩の荷が重すぎて背負いきれず、違和感が残る。
インディペンデント映画らしい片鱗が見え隠れするこの作品は、とりわけ主演のふたりにとってはアイドルという枠から抜け出すような、令和の新時代にふさわしいエポックメイキングな作品になったのだろうと思った。

この映画はダラダラ描かれているようで、実は緻密に計算しつくされたプロットだったという事が大きな盛り上がりで明らかになる。いわゆるどんでん返しをラストに持ってくるミステリー映画とは気色は違うものの、気持ちよくスカッとさせられる伏線が、随所に張り巡らされている。

たとえば映画序盤。部活動中の生徒たちが、長回しのフィルムのように映し出されるシーンがある。〝主要生徒たちの人となりを説明する〟という意味を含めた日常的な放課後の一幕であるが、それがまさかの形で後に重要な役割を担い活きてくる。伏線と思わせない程度のさりげなさで、でも、確かに生徒各々の存在意義を明確に観ている人の脳裏に植えつけられた。

ただ、正直に言えば、今回のクライマックスはあまりにできすぎているというか、パズルが綺麗に揃いすぎていて逆に気持ち悪いような気もした。盛り上がりの最高潮に向けて、彼らの真剣さや全力さがヒートアップすればするほどどこか滑稽に見えてしまい、いっそあのシークエンスはコミカルなタッチで描くのも面白いかもな、と思い至る。
達磨くん演じる東が全身全霊を込めたライムは心に響くし、ハレーションを用いた彼の横顔や誰もいない教室、廊下を映し出す演出はとてつもなくよかったのだけれど、創楽や中弥たちのドタバタ組との対比にどこか興ざめしてしまう自分もいて、若者の主張(ラップ)をBGMにあのドタバタを映し出すより、いっそクラシックやピアノを使った運動会ソング(「天国と地獄」みたいな)を有効に、シュールな笑いを引き出す手もあったかな、と。こう考えてしまうのは私だけだろうか。

逆に好きだったな、と感じる伏線は、森先生の剣道に関するそれだった。森先生役の吉田靖直の、なんとも言えない独特の存在感がマッチしていた事もよかった。あれは伏線の張り方も、オチのつけ方も、非常にバランスが良くて絶妙だったな、と感じる。
剣道の指導本を手放さなかったり、剣道の基礎動画に見入っていたり。まったく関係のないシーンの合間に何気なくインサートで差し込まれるので忘れがちだが、彼のキャラクターによって実は確実に頭に刻み込まれている。キラリや七浦のそれはまあできすぎていたけれど、森先生に関してはまさかこんな場面で活きてくるのか、と意外性もあって拍手を送りたくなった。




森先生以外にも、各々の登場人物像について書き記していこうと思う。

① 小野田創楽

オープニング、佐藤勝利演じる小野田創楽の朝の一幕から面白い。部屋でギターをかき鳴らす創楽。学校で空気のような存在である創楽は、自分自身を表現するための居場所がない。彼はギターというアイテムにすがる。が、ギターさえ彼には味方してくれない。中二病のような歌詞をノートに書き殴り、声をひそめて歌いだす。しかし、それすら家族に邪魔される。彼は言い返すこともできず、暴れまわることもできず、迷惑を掛けない程度の奇声を発した後、母に言われた通り従順にゴミを捨て登校する。
「朝」「防護ネットにくるまれて」「カラスから身を守る」「がらくたのような」ゴミを。捨てる。ゴミ視点のローアングルから、影の落ちた創楽のアップショット。心にもやもやを抱えた創楽の人物像が、「ギター」と「ゴミ捨て」、クローズアップと手振れショットだけで表現されている。面白い。

佐藤勝利は、小野田創楽という少年に抑えた演技で命を吹き込んでいた。それはプロダクションノートや本人のインタビューからもわかる。
つねに受け身で抑圧されてきた少年がクライマックスで爆発する、というのがこの作品の見どころであるが、「抑圧」と「爆発」の対比が非常に丁寧に表現されていた。演技を控えめに押し込まれていた分の鬱憤が、そのシーンに投影されたことによるのかもしれない。ただ、「ああ、この人はいくつもいくつも準備を重ねて、丁寧で抜かりのない演技をする人なんだな」という印象を持つことができた。ただ、これはあくまで私の印象。想像なので、彼が実際にどういう演技をする人なのかは知らない。

そう感じたのは、いくら「抑圧」と「爆発」を綺麗に演じ分けたからといって、創楽はその二面性だけで語る事ができるほど短絡的な人間ではないからだ、と思う。「抑圧」から「爆発」へと色を変える、そのグラデーションの段階すら創楽という人間性が上手に見てとれた。
中弥と一緒にいてほっとしているとき、ぼーっと考えに耽っているとき、怯えているとき、爆発したい衝動に駆られているとき、頭が真っ白になってパニックになっているとき。劇中、彼は実にいろんな表情を見せている。その都度声の高さだったり、話すスピードだったり、まことによく気を配っているんだろうなという事が感じられた。
お風呂上がりの妹が兄をからかうシーンでは、妹に忙しなく実況中継されるように、創楽は妄想が趣味と自負する通り、考えが次から次へとコロコロ変化していく。中弥に言いくるめられてすぐに主張や見解を変えられてしまう部分にも当てはまるが、創楽は言動が控えめだとはいえ、頭のなかの喜怒哀楽は大変に忙しい人物だと言える。

そんな創楽のシーンの中でも、とりわけ「お!」と私が気になったのは、希央が手代木に気圧されて机を運び出すシーンだった。教室を出ようとする希央を眺め、創楽はこらえきれずに「ちょっと待って!」と叫んで立ち上がる。
このシーンは、創楽が自分の殻を破る第一歩が描かれているのではないかと思う。これまで、「中弥が一緒にいるから」「中弥が勧めてくるから」と誰かの存在によって(学校ではもっぱら中弥)行動できていた創楽が、〝誰かの存在ではなく個人の意思で声を挙げた〟重要なシーンであると同時に、直感で動くことのできない彼が、〝はじめて頭より先に身体が動いた〟シーンでもある。
希央に学校に来てほしいと伝える時ですら「俺が…俺たちが、君の本当の姿取り戻すから」と言い直したり、「具体的にどうしたらいいか作戦を練ろう」と中弥に相談を持ちかけたりと、ひとりで行動することに対してひどく臆病であり、行動する前には必ず緻密な脳内シュミレーションをしておかなければ何もできない創楽。それが突然、後先考えず完全にソロプレイヤーとして目を覚ました!
そのあと結局、手代木の恐怖政治によって着席させられるる(抑圧される)ものの、あの瞬間は創楽にとっては大きな変革であったと思う。「ちょっと待って!」の言い回しに変化球を感じられた事もあり、あのシーンの創楽はなんとも言い難い魅力を放っていた。ちょっとすごいと思った。

② 月岡中弥

彼についてはドラマ版やHulu版ですでに掘り下げられているという前提があり、映画だけでは若干「月岡中弥」という人間の深みが足りないような気もするが、映画の中に滔々と流れる「自由」というテーマ、個性の尊重を体現するがごとく、中弥ののびやかな人間性が随所に現れていたなと思う。
創楽が「静」の裏に「動」を隠しているのに対し、中弥はいわば「動」の裏に「静」を隠している人間。教壇に立ってクラスメイトに演説するシーンも、絡まれた東の元に割って入るシーンも、「動」の前に必ず「静」があったからこそできる事であり、中弥のわざとらしくない自然体の優しさや強さというものが、非常にわかりやすく伝わるシーンであった。

そんな彼の「静」の人間性が一際遺憾なく発揮されたのが、夜の学校、落書きの壁と対峙する中弥のシークエンスだ。暗がりに中弥の表情はわざと見えないが、それが彼の暗澹たる心情を反映している。
彼が手にしたおぼろげな懐中電灯の明かりは、迷える羊たちが吐き出した言葉を照らしていく。その今にも消えそうな不安定な光が、中弥をはじめ、強がっていたり、興味のないふりをしていたり、なにかしら不安を抱えて生きている生徒たちの繊細な心の機微を感じさせてくれる。

ここでひとつ重要なのが、〝「落書きの壁」は現代の若者に必要不可欠な「SNS」のメタファーになっている〟という事。閉鎖空間で息をひそめ、制限された者たちが吐き出す秘密のSNS。液晶画面で眺める機械的な文字の羅列より、エネルギッシュで、大胆で、皮肉にも生気に満ち溢れていると言えるかもしれない。
誰かの落書きに対し矢印をつけて同意したり、疑問視したり、非難したりと温かみのないコメントが書き足されていく点も、誰が書いているかわからないというシステムを盾に誹謗中傷のリプライが後を絶たないSNSへの揶揄のように思えた。(しかしまた、最終的に騒動を鎮静化する写真の出所が結局SNSである、という点も非常に風刺的であった)

さて、こちらで息苦しい思いの丈をぶちまけた呟きに対する彼のリプライは、彼自身が心の中ですがっていた言葉なのだろうと私は解釈した。だからこそ中弥が思いを込めるようにしたためた言葉が否定的に捉えられる白昼のシーンは、なんだかとても切なかったな。

もうひとつ、大きな見せ場の前に、爆発寸前の創楽が「口ばっかりじゃないか」と中弥を盛大に罵るシーンがある。これまでの中弥を見るに、確かに中弥は創楽をけしかけるだけ、クラスメイトに自由を説くだけ、実際に動くときはのらりくらりと姿をくらますので、創楽の言葉は非常に的確だった。だからこそ、中弥という人間にズームしてこのストーリーをひも解くと、この創楽の発言はかなり重要なキーワードだったのではないかと思う。

「革命家」を創楽が目指しているならば、中弥はさながら「思想家」だ。「自由」とは何か。自分たちはどんな存在か。権利とは。組織とは。それを人々に説いていく。人々が動き出すきっかけを与える。「フランス革命」において動き出した労働者のひとりが創楽だったのだとしたら、中弥はそのきっかけとして、啓蒙思想を説く存在だと言えるかもしれない。

そんな中弥は希央ママと似ているな、と個人的に思う。大切に想う相手に信念にそぐわない行動(中弥なら「嘘」)をさせたくないばかりに、自分がいくつも仮面を被ろうとする。その仮面の種類もどことなく似ている。その点、希央が中弥に親近感を抱いたり、共通項を見出そうとしたりするシークエンスがあっても良かった。
そして最後に個人的な意見を言えば、中弥の肩なめのショットになるたびに、中弥(というよりもその時の私はもはや髙橋海人という目で見ている)の綺麗な輪郭、形の良いエラにひたすら胸をときめかせていました。

③ その他

中弥の兄・文弥。弟との掛け合いがとてもいい。あのシーンは最高にいい。喋り方、たたずまい、そこにいる二人は紛いもなく月岡兄弟なのだと認識できる。
個人的にこの掛け合いは中弥のキャラクターに深みを出すためにも大変よい素材だったので、もう少しカットを増やし、「兄との会話からヒントを得て、それを中弥が革命で活かす」という点があっても面白かったな、と思う。鳥のさえずりと魚の水槽とパクチーだけではどうにもこうにも革命に使えるアイテムは一つもないけれど。

ヴァージニア・ウルフ。実際に彼女が執筆した「ダロウェイ夫人」や、映画の題材となった「めぐり逢う時間たち」「ヴァージニア・ウルフなんか怖くない」といった彼女に関する映画のファンでもあったので、情報解禁があった時点で注目しているキャラクターだった。
中年ながらまことにチャーミングな女性であり、その存在で、すべてに赦しを与える聖母マリア、心とからだの傷を癒すナイチンゲールのような薬師丸ひろ子であった。彼女の登場カットはさほど多くないが、ラストにもたらされる結末を汲んでもその登場量はちょうどよかった。
(ちなみに彼女の名前がつかわれた「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」というタイトルは、ディズニーの映画「三匹の子ぶた」の挿入歌である「オオカミなんかこわくない」を捩ったものである。この歌は世界恐慌を「悪のオオカミ」になぞらえ大ヒットしたが、その物語は、〝オオカミが子ぶたたちの家に火をつける〟というものである……)

校長。演じるはでんでん。この人はもはや存在に威圧感がありすぎて圧倒される。軍服とスーツを着合わせたようなファッションはさながらヒトラーを想起させ、なんとも冷淡な雰囲気を醸し出している。
「学校の風紀を乱すモノはすべてゴミです。よって、ゴミから吐き出されたモノもゴミです」というセリフ(うろ覚え)が強烈。このシーンを観たとき、「モノ」というのは物体としての「物」という漢字に変換して聞いていたのだが、後々このシーンを思い返したときに、なるほど「モノ」は物体ではなく人間としての「者」なのか、と気づいた。改めて背筋がぞっとした。
無音になるカットも、薄暗い朝焼けのなかものものしい不穏なSEとともに映し出されるカットも、異様に恐ろしい。こんなの「冷たい熱帯魚」。今すぐ舞台が暗転して熱帯魚店になるのでは?これは校長になりすました村田なのでは?とパニックになりかけた。

創楽の妹。素晴らしかった、舌鋒鋭く兄をやり込める朝食シーンの長ゼリフ、とんでもない。耳につく高い声も、下に見るような蔑んだ口調も、おませで嫌味な妹感がよく出ていて非常によかった、愛らしいです。

こんな感じで登場人物への愛を書きだしていくときりがないのでこの辺りで止めておきます。



それこそ映画を思い返していて好きだったな、と感慨深くなるシーンはいくつかある。

まず最初に挙げたいのが、モノレールのシーン。創楽と中弥の非常にほのぼのとしたやりとりが見られて可愛い。その直前、中弥が東にちょっかいを出し「いや、面白ければ笑うよ?」と言ったセリフはとても耳なじみがよかったのだが、モノレールのシーンでも創楽に対して同じセリフが登場する。
反復されるところを見るに、これが月岡中弥という人間を表す非常にわかりやすく的を射たセリフなのだろうけれど、それよりなにより、東に対してとはまた違った声色で創楽に向けられた「いや、面白ければ笑うよ?」がとてつもなく愛しかった。


また、見せ場となるいわゆる「革命」について、ひと言言わせていただきたいのが、これだけ「革命家」と銘打ってきたのだから、この騒ぎを「反乱」と台詞に入れるのはいかがなものか。どうもいけ好かない。確かに「革命」というよりは「反乱」に近い動乱を感じたが、せっかくなのでここは「革命」を突き通してほしかった。

他のシークエンスが秀逸であるが故に、この盛り上がりは少し物足りなかった。というのも、東がラップを披露したり、創楽が演説したりしている間の先生たちの動きが、大変もったいなかったからだ。リアルで動的な面白さを感じる作品である分、生徒たちがやりたい放題している間、黙って下から眺めながらラップや演説を聞いている、という図はどうも珍妙で、うまく頭のなかに刷り込めなかった。

ではどうしたらあのシークエンスにリアリティを持たせられるのか。そう聞かれると誠に難しいけれど、雑な事を言ってしまえば「創楽に爆弾を持たせる」とかそういう事でいいのだ。もっとくだらなくてもいい。
たとえば、火災報知器になぞらえて消火器を手にした創楽に「邪魔したらお前らに白粉ぶちまけるぞ!」と豪語させ、止めようにも手出しができない先生たちの前でつたない弁舌を振るわせる。こういう全力で必死なのにどこか脱力してしまうようなアホな感じ、それでも全然かまわない。


そもそもがアホだ。改めて思う。すべてを取り払ってストーリーをぼんやり鳥瞰してみると、これほどくだらなくてどうしようもないストーリーはないと思う。
ブラックな校則を変える。もっと賢い手を思いつく奴はいないのか、もっと建設的に計画を進められないのか。改めてそんな突っ込みを差し上げたくなるようなストーリーである。


しかし、ストーリー展開以上にもっとくだらないものがあった。つねに受け身だった創楽の「動」を突き動かした原因。それは学校に対するにフラストレーションが極限に達した訳でも、中弥にうまい事言われてそそのかされた訳でもない。恋だ。町田希央に対する、創楽の純真無垢な恋心だった。

この単純な動機こそ、なによりくだらなく、それでいて、何よりも愛しいキラキラした青春だった。これってなんてパンクなんだろう。

彼女と一緒に勉強したい。彼女と一緒に体育祭に出たい。そんな純粋な願望が、「静」として生きてきた彼の「動」を目覚めさせる。青春というのは得てして真っ直ぐすぎて、みていてその眩しさについうっかり泣きそうになる。実際、希央も泣いていた。
監督のコメントにもあったが、ふたりがタピオカの行列に並ぶシーンがある。彼らは、〝いまここでタピオカいちごミルクを買うために行列に並ぶ事こそが、希央を救うに違いない〟と心から信じている。それはあまりにもアホで、あまりにもくだらなくて、あまりにも単純で、だけどそのあまりに明朗快活で純粋な思考回路が、どうしようもなく眩しくてやっぱり少しだけ泣けた。


本作において描かれる「恋」はこれだけだと思っていたのだが、ラストの一歩手前になって、まさか中弥の恋までひも解かれるとは思ってもみなかったので、不意打ちについぎくしゃくしながら観てしまった事を正直に告白する。
結果、あの最高のクライマックスを一瞬で翻してしまうような素敵すぎるエピソードだった。天才か。髙橋海人信者の私は心の中で割れんばかりの拍手を送った。

中弥の恋について正直に述べさせてもらうと、序盤からわかりやすい描き方だったのであまり好みではなかった。

田母神先生の後頭部。思いきりかんざしをアップで映し出しながら、中弥が詠んだかんざしといちごの恋の句を読み上げる。さらにそのあとすぐに手代木が入ってくると「田母神先生もかんざしはやめてくださいね」と苦言を呈する。
これほど一気に「田母神先生=かんざし」という印象を植え付けられれば、否が応でも中弥の恋の相手など察してしまう。せっかく「farewell dear M」のミスリードがあり、最後のどんでん返し的要素になりうるのだから、なんだかもったいなかった。

ただし、真相を知ることとなるフラッシュバックのシーンは、本当に本当にキラキラしていてよかった!

かんざしを探しに来た田母神先生のもとに、横揺れするようにへろへろと、独特の歩き方で近づいてくる中弥。それまで教室によくいるおバカな男子だったのに、近づいてくるその姿や先程の見上げる姿が男だった、高校二年生の年相応な男の子すぎた。
他のショットよりいくつか明るめのトーンで映し出されているような気がした。中弥の笑顔も、彼の心の中にしまわれた恋心も、非常に眩しく春のそよ風のように爽やかに描かれていた。好きな女性を目の前にした嬉しさと、どことなく彼女の居心地の悪さを感じ取った複雑な感情が入り交じった切ない横顔が、眩しい日差しの下でとてもとても健気だった。

「先生、おれに好かれるの、迷惑?」

決して越えられない、中弥と中弥の想い人との社会的な隔たり。それをフェンス越しというあまりにベタなシチュエーションで描くところがまた良かった。

どうせならフラッシュバックのなかに更にフラッシュバックとして、中弥が恋に落ちた瞬間、一年生の授業中の一コマを描いてほしかった。創楽が希央に恋に落ちた瞬間を象徴的に描いているように、中弥が恋に落ちる瞬間もとても絵になるカットだったと思うのだが。創楽から希央、中弥から田母神先生、という二種類の恋の対比という意味も込めて。


さて、ついに最後、ラストの解釈だけれど、これは「ハートに火をつけて」へのオマージュであり、「受け身でいるな」という若者へのメッセージである、という趣旨のコメントをパンフレットで読んでしまったので、それ以上に言う事は何もない。
ただ、観た瞬間とてつもなく痺れた。私はこのラスト五秒に「この作品、傑作」と合点した。まさかこの人物がこんな面白い役割を担うとは思わなかったし、劇中で何度も意識下に埋め込まれた「放火」というキーアイテムが、こうしてさらにだめ押しで私たちを大いに揺さぶってくる感じ、小気味よく裏切られた気分でとても楽しかった。
思えば、これもまた伏線として劇中で描かれていたのだ。ウルフが手代木に「おばはん」と呼ばれた時。彼女もまた、目に見えない「抑圧」の支配下にあった。これも時系列を行き来するシークエンスになるが、希央のばら撒かれた教科書に火をつけたのが、あの黒煙で間違いないと思う。