Mank/マンクの作品情報・感想・評価・動画配信

Mank/マンク2020年製作の映画)

Mank

上映日:2020年11月20日

製作国:

上映時間:132分

ジャンル:

3.7

あらすじ

「Mank/マンク」に投稿された感想・評価

デヴィッド・フィンチャーが今作で描いたのは、映画史に残る名作『市民ケーン』制作時のオーソン・ウェルズではなく、その脚本家を務めたハーマン・マンキウィッツの姿。

あえて地味な人物に焦点を当てつつ、同時に社会風刺を描写するあたりが、さすがはデビッド・フィンチャーというところでした。

『市民ケーン』を観ておいて良かったです。
タキ

タキの感想・評価

3.9
市民ケーンの時代のフィルムに似せたモノクロのダメージ加工や音の割れ具合などこだわりにこだわった作りでなかなかこの企画に映画会社がうんと言わなかったのもわかる気がする。ハッキリクッキリしたクリアな映像に慣れきっているので画面が全体にぼんやりして見えるが、マリオン・デイヴィス役のアマンダ・サイフレッドぐらいの美貌でやっと目の解析度が上がる。マンクは中年太りで口が悪くて大人気ないアル中の脚本家なのだが、ゲイリーオールドマンが憎めないキャラクターをつくりあげていてさすがだった。
1930年代当時のハリウッドの裏話、特にMGMの絶対的権力者だったメイヤーやThe Boy Wonder(天才少年)と呼ばれたプロデューサー、アーヴィング・タルバーグのこと、カリフォルニアの州知事選で新聞王ハーストと戦うことになった社会主義の小説家アプトン・シンクレアのことなどを知った上で見ないとなにがなにやら分からない。字幕の限界もあるのかもしれないけど会話がウィットに富み過ぎててなかなかついていけない。配信で見たのをいいことにシーンごとに停止して登場人物の背景を調べたりその上で会話の内容を反芻したりしながら3日がかりでやっと見終わった。
市民ケーンの制作の裏話的なところは牧場の民宿みたいな場所で60日間のカンヅメで脚本制作をしていたこと、マンキウィッツを脚本家としてクレジットに載せるかどうかでオーソン・ウェルズと揉めていた点ぐらいだった。著作権のある者に全ては集約され脚本は書いてもクレジットされないというのは当時よくあったということにまず驚く。映画ではオーソン・ウェルズは他の企画で忙しくマンキウィッツ単独で書いたというような描写だったが、実際のところやはりオーソン・ウェルズとの共同作業であったというのが妥当な線らしい。マンキウィッツ自身が社会主義であったという流れから(これもどうやら創作)やはり単独で書いたとしなければならなかったのだろうなという気がする。
メディア総出でシンクレアのネガティブキャンペーンをはり大衆をコントロールしようとするところなどは政治とメディアの関係を考える上で興味深い。
なんでもハーストという人物はスペイン人の暴虐無人ぶりを書いた捏造記事で民意をコントロールし米西戦争まで引き起こすようなこともやっていたようだ。
彼は本当にちゃんと市民ケーンを見たんだろうかとふと思う。そんなに激怒するような内容じゃないのになと思うのは当事者じゃないから言えることだろうか。


【インタビュー】デビッド・フィンチャー監督がほれ込んだ男「Mank マンク」の魅力
https://eiga.com/news/20201212/10/

デヴィッド・フィンチャーが語る『Mank/マンク』
http://indietokyo.com/?p=14623

『Mank/マンク』を観る前に知っておきたい7つのこと
https://www.cinematoday.jp/page/A0007589
SSS

SSSの感想・評価

-
市民ケーンを観た上でもう一回観ます!
KeiRalph

KeiRalphの感想・評価

3.6
すいません…作品に非はありません。まず何より、市民ケーンを観ていない私に問題がある!

もう一回勉強して参ります
なこ

なこの感想・評価

3.6
ラストがソリだったなんて〜!
俺のどこが良くて一緒にいる?
哀れなサラとはもう言われたくない
ストーリー 3.5
映像 4
演出 3.8
キャスト 4.3
音楽 3

勉強不足です。必須知識が圧倒的に足りませんでした。
〈「マンキウィッツ」という名の鳥ははばたく〉

たとえば同じ一本の映画だとしても、その背後に隠されたストーリーを知ることで作品の見え方がまったく変わってしまうということがある。この映画を観るまで、僕にとってオーソン・ウェルズの『市民ケーン』はいわゆる「映画史に残る名作」でしかなかった。けれどもその脚本を描いたマンクウィッツのストーリーを知ったがさいご、『市民ケーン』は僕にとって特別な作品に様変わりしてしまった。デヴィッド・フィンチャーの『Mank マンク』は、まさに観る者を「映画の魔法」にかける作品であると言えよう。

「マンク」ことハーマン・J・マンキウィッツは、運転中の事故によりベッドに寝ている状態からこの映画ははじまる。ブラインドをおろし、薄暗く埃っぽい部屋は、モノクロのスクリーンと相まって朝なのか夜なのかも分からない。しかし、マンクの回想と現在とを行き来しながら『市民ケーン』の原稿を書き上げてゆく中で、マンクの部屋には日が差し込み、最終的にマンクは家の外へと出てゆく。
マンクはかつて「責任が分散されるから」という消極的な理由で共同執筆の制作スタイルを取っていた。だからマンクは『市民ケーン』の脚本が完成したあとも、脚本にクレジットを入れろというハウスマンの提案を頑なに断っている。けれども、マンクは妻であるサラとの会話、そして晩餐会の回想を経て、ウェルズとの契約を破ってでも「マンキウィッツ」の名前を脚本に入れることを決断する。そしてウェルズと別れたまさにそのタイミングに、リリー・コリンズ扮するリタの元に「生きている」という知らせが届く。脚本に名前を入れると宣言したあの瞬間、マンクは映画という歴史の中に「はじめて生きた」と言えるのではないだろうか。

マンクが描いた「ケーン」のモデルは新聞王ハーストであったが、同時にマンクは自身の姿をも重ねていた。マンクは冒頭から一貫してケーンのモデルの正体の名言を避けるし、「散らばる白い紙」という書き出しの描写からも明らかにマンクは自分自身をもモデルにしていたことが分かるだろう。「俺はまだ何一つ成し遂げていない」とマンクはつぶやくけれども、彼はケーンのように落ちぶれはしなかった。マンクはケーンの人生を描くことを推進力にして、宮殿の外へと飛び出して行った。終盤、弟のジョーの背中に投げかけるように、彼は「マンキウィッツ」という名の鳥になってはばたいていったのである。

では、マンクとケーンの違いは一体なんだったのか。それは「哀れなサラ」の存在を置いて他にはないだろう。マンクは冒頭から終盤まで繰り返しサラに「なぜ愛想をつかさない?」「What do you love me? 」と問い続ける。サラはその度に答えをはぐらかすが、終盤、ウェルズを自宅に迎えるシーンで「あなたといると退屈しない。イライラしたり悲しくなることもあるけど、ここまで尽くしたのだから最後まで見届ける」と答えるのだ。
マンクはマリオンと宮殿を散歩するシーンで、『ドン=キホーテ』の作者であるセルバンテスの言葉を引用する。「世に様々な道あれど、何にも勝るは愛しい女に会える道」。そしてマンク自身の言葉をこう続ける。「様々な言葉が世にあれど、何より喜ばれるのはもう関わらぬと告げる言葉」。
あのときマンクが付け足したケーン的なニヒリズムは、彼が原稿を書き上げる過程で消滅していったのであろう。サラはマンクに対して「もう関わらない」とは決して言わない。むしろ「死ぬまで関わり続ける」という言葉を告げるのである。サラとのこのやりとりがあったからこそ、マンクはウェルズに反抗できたし、クレジットに自身の名前を入れるという決断を下すことができたに違いない。
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