タイトルがタイトルなので、観る前までは、5代部族の長老か誰かが「我らのブラックパンサー様が、ついにお戻りになられた…(涙)」と嗚咽を漏らし、みんなで「ワカンダ!フォーエバー!!」と一斉に叫ぶ大団円となって、大盛り上がりしながらジ・エンドとなると、勝手に思っていたのだが…。
ざっくり言えば、本作「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー(22年)」は3時間近くもある「葬式」を、延々と見せられているような作品だった。
冒頭、お馴染みのマーベルのモーションロゴが今回、チャドウィック・ボーズマンの弔いバージョンであることからして、本作の主題が“追悼”なのは明らか。
[注:「キャプテン・マーベル(19年)」のマーベルロゴが、その前年に逝去したスタン・リーに捧げられたバージョンだった例もあるが、スタン・リーが製作者兼クリエーターのため、最後に「Thank you Stan」と哀悼の意を表したシンプルなメッセージを出しただけで、本篇中の物語に影響することは無かった…]
チャドウィック・ボーズマン、彼の死を映画の中で悼みたい気持ちは判らないまでもない。
前作「ブラックパンサー(18年)」は「黒人が主演のヒーロー映画はヒットしない」という通説を吹き飛ばし、公開当時の歴代全米興行収入第3位に駆け上がるまで大ヒットし、ハリウッドの常識、否、世界までを変えてみせた。
公開後には「ワカンダ・フォーエバー」の合言葉や、腕を前でクロスする敬礼のポーズが、SNSだけでなく世界中の至る所で見られるようになったと、ネットの記事で読んだ記憶がある。
また、印象的なのが、ボーズマンの持つ廉潔さ・知性・品格を伺わせる、まっすぐで、澄んだ綺麗な瞳。
ハリウッド・スターならば往々にしてある、アルコール依存症やドラックにまつわる問題など、1ミリも感じさせない清廉潔白なイメージのスターだった。
スクリーンに映ったボーズマンの圧倒的なカリスマ性を見れば、彼が次代を担う“アフリカ系俳優”、その逸材だったことに異論を唱える人はいないだろう。
「42〜世界を変えた男〜(13年)」では黒人初のメジャーリーガー、「マーシャル 法廷を変えた男(17年)」では黒人初の合衆国最高判事、「ジェームス・ブラウン〜最高の魂(ソウル)を持つ男(14年)」も合わせると、アフリカ系アメリカ人のレジェンド役を連続して熱演(!!)。まさに黒人の子どもたちの理想像を一身に引き受けた役者人生。その集大成と言えるのが前作「ブラックパンサー」だったのである。
チャドウィック・ボーズマンが病に倒れる以前に書かれた本作の草案は、サノスの指パッチンで、ティ・チャラとシュリ(レティーシャ・ライト)が消えてしまい、その不在の5年間にワカンダと周りの諸国の間に諍いが起こり、それを発端とする話だったらしく、前作ラストで描かれた、ナキア(ルピタ・ニョンゴ)が勤めるカリフォルニアの国際救済センターはもはや機能しなくなり、世界中に供給しようとしていたヴィブラニウムの貯蔵施設も、他国か、テロリストに襲撃されてしまったのである。
2020年8月、ボーズマン死去により、この草案は見送られる訳だが、それから1年も満たない2021年6月下旬に撮影をスタートさせた、監督&脚本を担当したライアン・クーグラーの頑張りは、先ずは褒めるべきであろうし、かなり初期の段階から「代役を立てるつもりはないし、デジタルやCGでチャドウィック・ボーズマン版ティ・チャラを蘇らせることは絶対にしない!」と断言した、漢気溢れる職人魂は、個人的に“買い”だ!!
たしかに連続シリーズ物で、主役級の俳優が死去したことで、急遽代役が立った例はあまり記憶にない。
「ワイルドスピード」シリーズの主人公ブライアン役を演じたポール・ウォーカーが、「ワイルド・スピード スカイミッション(15年)」撮影中に他界したため、彼の実弟二人が代役を務めCG合成などを駆使し、残りのシーンを完成させたエピソードがあるくらいだろうか…。
[注:「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け(19年)」のレイア姫は、前々作「フォースの覚醒(15年)」の未使用フッテージを使用したものなので、この範疇ではない…]
本作「ワカンダ・フォーエバー」は、ティ・チャラの突然の死より、国の守護者ブラックパンサーを失ったワカンダに、海の王国タロカンの支配者ネイモア(テノッチ・ウエルタ・メヒア)が侵入。ネイモアは海底にヴィブラニウムの鉱脈があることがバレて、自国の平穏が乱された原因がワカンダにあると怨み言を並べ、ヴィブラニウム探知機を発明した科学者を探し出し引き渡すことを要求。ラモンダ女王(アンジェラ・バセット)とシュリたちは、この新たな脅威と手を組むか、自国の民を危険に晒してでも対決するか、その選択に迫られるという展開。
しかし…やはり急遽仕上げた台本ゆえか、構成の粗さというか、スッキリしないところが目についてしまう。
前作「ブラックパンサー」は、キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)の父上ウンジョブが、「ワカンダの技術を世界中で耐え忍ぶ黒人の同胞のために使うべきだ」と反旗を翻したことで、“一国繁栄主義”を取る君主政治に粛正されてしまったことに猛省したティ・チャラが、終幕間際、「国を開いて、知識を広めるべきだ」と宣言して終わったはずだった…。
しかし本作は、その門戸を閉じてしまった印象、後退した雰囲気がある。
フランスがチョンボ(=ダマテンでヴィブラニウム貯蔵施設を急襲)したからという理由は理解できるが、ここまでヴィヴラニウムの採掘に他国からの干渉を嫌うのは、ラモンダ女王が某国の将軍様のような、へそ曲がりの為政者に見えてしまう。
まぁ、民主的な王様ティ・チャラが亡くなったことが、後退の大きな要因なのだけれど…。
また、本作は過去をブリ返す展開が多い。
物語の中盤、色々あって、シュリがネイモアに捕まってしまうのだが、その原因が科学者を探す任務にシュリの同行を進言したオコエ(ダナイ・グリラ)にあると、ラモンダ女王が怒り心頭で詰め寄り、その際、「あの時、お前が裏切り、キルモンガーの配下についたことを、私は断罪せずに許してやったのに!」と既に不問に付したにも拘らず、5、6年前のことを未だ根に持っているかのようにネチネチ言い始めるのだ。
さらに最後には「夫も息子も亡くしたワタシが一番の被害者だ!」とキレ気味に言う始末…。
オコエにしてみれば、前作でキルモンガーに一旦仕えたフリをしたのは、“玉座に忠誠を誓って生きる”ことしか知らない人間には他の術がすぐに考えつかないからであって、また今回、シュリを帯同させたのは、世界各地に侵入し祖国のために諜報活動を行うナキアを見て、“国際的な視野”を持つことの重要性を悟り、シュリにその経験を積ませたかったからだろう。
(蛇足ながら前作で一番好きな台詞が、ナキアの「国を守るのではなく、国を生かすことが大切」である…)
そして、そのシュリ自身もティ・チャラの命日、亡き兄の「世界中の貧困と争いを失くしたい」という思いを、列強国がなかなか理解しようとしない苛立ちと、兄を失った寂しさが憎しみへと大きく変わり、「世界を燃やしたい…」と呻くような声で呟く。
これは「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ(16年)」で父を失ったことで憎しみに取り憑かれてしまったティ・チャラ、そして前作のキルモンガーと全く同じ、その繰り返しである。
また物語の後半でも、それはリフレインされる。
シュリは身体能力と五感を超人級に高めるため、ハート型ハーブの成分を持つXXXを兄ティ・チャラのDNAと調合させ飲むわけだが、元々ハーブには祖先の魂と交信できる神秘的な作用もあり、前作でティ・チャラは先代の国王たちが集まる幻想的なサバンナ、「祖先の草原」で亡き父ティ・チャカと再会を果たしていた。
しかし、今回、シュリの前に現れたのはキルモンガー。
さらにその場所は「祖先の草原」ではなく、大切な“あの人”が本作劇中内で殺された「玉座の部屋」。
これは前作でキルモンガーがハーブを飲んで、父・ウンジョブとその死に場所=かつて暮らしていた「LAの集合住宅」で再会した展開と全く同じで、シュリのモチベーションが“復讐心”であることをハッキリと示唆している。
また、エムバク(ウインストン・デューク)から「今、タロカンと戦争を起こしたら、永遠に戦い続けることになるぞ!」と忠告されたのに、それを押し切ってまで、シュリは自身の“復讐心”を優先させる行動に出てしまう。
これは、「シビル・ウォー」と前作で、ティ・チャラが散々苦悩した末、下した判断・行動を全否定するものだ。
シュリは喪に服しているように見えて、実のところ、ティ・チャラの遺志を全く理解していない。
まぁ、前作でのシュリを思い出せば、王政に懐疑的で、神も信じていないような、サイエンスおたくのおキャンな女の子だったので、無理もないことなのかもしれないが…。
さらに付け加えれば、
タロカンがヴィブラニウムを貯え、世間から隠伏してきた点から、ワカンダと同じ志を持つ“民”として描いておきながら、終盤、両者が殺気立って、残酷に削り合う姿を延々と映すアクションシーンは、タロカンとワカンダ、どちらに肩入れすれば良いのか、観る側を困惑させる要因になったと思う。
原作コミックでのネイモアは、海に沈んだアトランティスの国王で、古代ギリシャ神話をベースにしていたが、本作は前作に引き続き、「白人中心主義の世界秩序への警鐘」をテーマにしているため、16世紀にスペイン人に滅ぼされたマヤ人をイメージソースにしている。
ハッキリ言えば前作の「アフリカ系」を「ヒスパニック」に置き換えただけだ。
ワカンダの民は白人の暴虐に晒されずに、先進的国家を築いてきた。
タロカンの民は白人の暴政から逃れて、海底に身を潜めながら革新的国家を打ち立てた。
ならば共通の敵は「白人」であるはずなのに、なぜ互いに歪みあわなくてはならないのか…。
ましてや敵と目される「白人社会」が、ロス捜査官(マーティン・フリーマン)と元妻のCIA長官ヴァレンティーナ(ジュリア・ルイス=ドレイファス)との痴話喧嘩めいた会話でしか、ほぼ描かれていないのは、一体どういう意図、魂胆なのだろう(笑)。
もう一つモヤモヤしたのが、終盤のクライマックス。
ネイモアとの対決時、ラモンダ女王の「あなたが誰であるか示しなさい」という言葉を、シュリは幻聴のように耳にするが、これは前作で、挑戦の儀式の際、ラモンダ女王がティ・チャラに投げかけたモノと全く同じ。
但し、前作が「血統による王位継承という慣わしを壊すな!その重責を感じなさい!」という過去の歴史・その血統を重要視する意味に思えたのに対し、本作のそれは「過去の縛りを解き放て!恨み・辛みは忘れなさい!」と、全く違う正反対の意味のように聞こえてしまった。
しかし、劇場を出た後、ちょっと冷静になって「王たる者は復讐心などに突き動かされてはいけない。私情で国の民を巻き込んでいけない」と言っているんだなと、思い直した訳だが…。
本作「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」は、冒頭の葬儀シーンから暫くは、シュリやラモンダ女王、国民が悲しみに打ちのめされている場面が続くが、中盤以降、本作の新機軸である「タロカンとの争い」がティ・チャラの死によってもたらされたものでないにも拘らず、それでも絶えずティ・チャラの幻影がチラついているのは、シリーズ物としてはいささか致命的で、明らかに後退していると思わざるを得ない。
本来ならば、本作の一番の命題であるはずの「2代目ブラックパンサーの行方」に、うまくシフトしきれないていないのである。
また、黒豹をモチーフとしているから当然なのだが、前作のスーツ、その御尊顔が目のやや大きいスパイダーマンと違って、ちょっと小粒でつり目で、いつもなんか怒っているというか、不機嫌っぽくてイイ感じで好きだったし、さらに両手の甲から出るパンサークロウが、キン肉マンのウォーズマンみたいでめっちゃカッコよかったのだが、今回の2代目は新兵器含めて、期待していたよりも、あんまり活躍してくれないのだ。
特に前作で、個人的に一番のお気に入りの、スーツが受けた衝撃を吸収&蓄積し、そのエネルギーを好きな時に放出する、対戦相手からすれば恐ろしい倍返しワザを、今回、まったく見せてくれない…。
(まぁ、その代わりなのかどうか知らないが、10階建てのビルぐらいの高さがある、ワカンダの戦艦が登場する…)
前作「ブラックパンサー」は、人々の祈りや希望、“こうあって欲しい”という願いが誰かに届くこと、世界中に届くことを、一切茶化すことなく、真摯に、観る者に信じさせてくれた映画だったと思う。
そして、本作「ワカンダ・フォーエバー」で課された難題、その解答は前作のクレジットロールあけ、最後の台詞で、ティ・チャラはすでに答えているのだ。
「憎み合い、いがみ合っている同士でも、実際には“違い”よりも“共通点”の方が多い」と…。
マーベル・シネマティック・ユニバースもフェーズ4終盤、その佳境に入り、劇場公開作&配信シリーズ併せて、製作サイドはいろいろと大変なのだろうが、前作「ブラックパンサー」が好きだったイチファンからすれば、逝去したチャドウィック・ボーズマンのことをそんなに慮らず、いっそのこと、過去を悔やまず、省みず、「ティ・チャラ不在の今」だけにフォーカスを当て、白人中心主義の象徴・アメリカあたりに進撃するタロカンを何とか阻もうとするシュリたちを描いた方がベターだったのではないかと、鑑賞後、しばらく経った今でも、無体な考えが頭を過ってしまうのだ…。
最後に…
本作「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」は公開2週目の週末、都内にあるソコソコ大きなシネコンで、朝イチの回に鑑賞したのだが、ラストシーンが終わり、クレジットロールが映し出されるや否や、席を立つ人が意外に多かった印象が残っている。
作品全体に漂う重苦しい雰囲気に耐えきれなかったのか、それとも、ティ・チャラの一周忌を改めて執り行い、海岸でただ独り、涙を流し、ティ・チャラを思い出しながら追悼を捧げるシュリの姿を観て、「これ以上のエンディングは無い」と思い込んだゆえの行動だったのだろうか。
しかし、クレジットロールを中断して映し出された、
あの驚愕のシーンを観なかったことを、きっと後悔しているだろう。
自分自身、そのシーンに登場した、“ある人物”が、自らの名前を語る言葉を耳にした時、これまで3時間あまり感じていたモヤモヤが、一瞬にして吹っ飛んでしまった。
ただし、しばらく経つと、シュリのことが、とても不憫に思えてしまうことになるのだが…。
そして、どこか既視感を覚え、思い出したのが
「オーメン」シリーズ3作目からの10年ぶりの続編、TVムービーに格下げされた「オーメン4(91年)」。
ネタバレを考慮して詳細は最小限に止めるが、
「オーメン4」は子宝に恵まれない弁護士夫婦が、孤児院から女の子の養子をもらい、ディーリアと名付けて育てていく中、ディーリアの周囲の人間に不吉なことが起こり始めるという、グレゴリー・ペックが出演した1作目のセルフリメイクのような作品なのだが、そのラスト、3作目で死んだ悪魔の子ダミアンと血の繋がった“遺児”が、実は生き残っていたという、まさかの壮絶なオチ(!!)で締めくくられるのである…。