三四郎

巴里の屋根の下の三四郎のレビュー・感想・評価

巴里の屋根の下(1930年製作の映画)
3.0
遠くからやさしい歌声が聞こえてくる、それはだんだんと大きくなってくる。
メロディが素敵で忘れられない!いい歌だ!
トーキー初期の頃だからか、メロディは流れるように鳴り続けているが、セリフが少なく、サイレント演技とカット割りで展開していく。サイレントの撮影技法でトーキーを撮っているからこそわかることがある。それは言葉は無くともしっかりと観客に伝わるということだ。
男に唇も許さないし、もちろんベッドを共にすることもない。フランスにもこんなプロダクションコード時代のハリウッドのような清純なキネマ時代があったんだね!
フランス映画を観ていて常に思うが、そう『巴里祭』のときも…。男性のネクタイの締め方が雑すぎる。あの後ろを長くするおかしな締め方が、当時は粋だったのかしら?
フランス人は男も女も軽佻浮薄で若ければ誰にでも色目を使う…。男にも女にも倫理道徳が欠けている。目が合えば「恋愛」できる国だ。世界は男と女でできている、人生はいつも青春真っ盛り!それに哀愁が漂う感じ。

最後は友情の感動話かと思いきや、意外と靡きやすかったあの一人の女を巡って親友同士が拳闘寸前、哀れせつなし。
それにしてもサイコロで女をどうするか決めようとするなんて!私はフェミニストでは全くないし、フェミニズムなどどうでもいいが、この「女をもの(所有物)として扱う」あの親友の心が知れない。アルベールに悪いことをしたと悔いているのはわかるが、しかし「お前も彼女を愛しているんだろう??お前の愛は一体なんだったのか!本気で彼女を愛してたわけではないのか?!愛する女の運命はたかが三つのサイコロの数字で決められるものなのか?!」と叫びたくなった。大いなる疑問。男と女の関係はサイコロで決まるようなものなのかしら…。アルベールは親友の気持ちも女の気持ちもよくわかっているように描かれてるが、うーむこれでいいのか?
終幕はリフレインでまたあの歌声が聞こえてくる…

刑務所に入れられた男を待って待って待ちわびて紅涙絞りし日々…というのはフランスでは通用しないのかしらん。このフランス娘かなり楽しそうに過ごしてる。結婚話も、荷物整理もあまり嬉しそうではなかったから、アルベールの一方的なせつない片思いだったということか!?

双葉十三郎や猪俣勝人の批評を読んでわかったが、トーキー初期時代は、何でもかんでも音を入れ、無駄にセリフを喋らせ…といった映画が溢れていたらしいので、このセリフを極力使わず、映像で語っていくサイレント映画式の技法はある意味新鮮な感じがしたそうな。
三四郎

三四郎