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海辺の映画館―キネマの玉手箱のおはうちのレビュー・感想・評価

3.5
はしご映画ラストに『海辺の映画館 キネマの玉手箱』を観たのは引きが良かった。これは映画を観て帰る映画だったから。

「戦争映画は国家のヤクザ映画」っつーのがパワーワードだった。

虚構(映画)と現実(歴史)と観客が三重螺旋に折り重なって同じレイヤーに強制的に同居させる。虚構 対 現実じゃない。観客は映画に組み込まれて歴史を再演する。映画を鑑賞するとは当事者になる事である。映画と歴史は、自分たちなんだ。

歴史を描いた映画が終わる=現実に帰るのとは違う、思い出を持ち帰るのでもなく、あなたは映画であり歴史であるから常に一緒であると教えてくれた。だから、映画が終わっても大丈夫だよねと囁かれた気持ち。

山のように表示されるテロップにYouTuberも真っ青だよ。普通のドラマ展開なんぞ無くて、過去・未来を行き来して、情報の波を漕いでいく、すると完全に凪に入っていく、全体の中でいちばん劇映画になっているからテロップも出張らない。1945年8月の場面だ。

1945年8月6日の原爆投下に差し掛かると激しい時間の右往左往は定まって直進していく。激しい情報戦の果てに託しているのは、綿々と受け継がれている原爆の記憶、大量殺戮の記憶。もし、これらの記憶が無い世代の発生を許したら、本作の破壊力が消えるのと一緒。

これから起きるカタストロフを記憶している観客という視点で『君のなは。』が連想されて、名前の重要性を説く場面でも一致した。本作では粛々と名前を読み伝えるシーンの破壊力が凄まじく、そして冷たい。

映画館に所狭しに座って満席になる描写で、コロナ以前の最後の映画になってしまって意図しないノスタルジーがあった。

笹野高史はヒトラー風のちょび髭を生やした最悪な軍人役と、人柄の良い車掌役やっていて、映画上の役柄と、現実の歴史の存在が混在している。一人の人間は映画に創作された人間でもあり、歴史上の人間でもある。同一視されて一緒。虚構と現実は一緒。

虚構と現実の両方で守るべきプリミティブな存在・象徴を託された吉田玲を見送るシチュエーションで、特に映画館を後にする彼女を見送る白石加代子が演じるチケット売場のオバちゃんが吉田玲に向かって話す時に切り返さないで、その顔だけで想いを託している場面でポロリ。
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