本作のように「LGBTQ」を扱った映画、という言い回し自体をそろそろやめた方がいい、と強く感じた。
本作は、それくらい「現代の現実」というのを、描写は静かで、そんなことを気付かせながら一方で、とても激しく浮かび上がらせる。
「性的マイノリティ」というカテゴリーを超えて、裏切ったとか裏切られたとか、ましてや外野がなんちゃら、というようなことを言いがちな現代において、人物たちの痛みや、田舎暮らしの中に起きそうな「偏見」など目も暮れずに主人公たちは生き方を選び取って行くという作劇が見事。
しかしその中には。鈴木慶一演じる緒方さんの「アメリカン・スナイパー」的な描かれていない部分への想像だったり、岐阜県の白川町という実際の町が登場する事情だったり。
映画的な創作世界の部分と、地続きの現実との接点などが脈々と存在している点が実にスマート。
言うべきことは何も表立って主張はせずに人物たちの心情を追った作劇と今泉力哉の「演出」という神の視点によって、ある意味で「政治的に」切り取られていく。
それらを踏まえて。
男と男、だろうが、なんであろうが、人の営みとしてちゃんとイチャつき、求め合い、食事をし、仕事をし、子供を育てる。
そしてパイプオルガン職人のおじさんの言う「正直な人だぁ」に導かれるまま「身勝手」が「正直」に貫かれていく展開が素晴らしい。
作中語られる「一般的に」という欺瞞は裁判シーンで見事に粉砕され、人が生きていく上で気付かずに積み上げていく過ちに対して「ジャッジしない」という姿勢においてこれまでの今泉作品は一貫しているが、本作はより踏み込んだ厳しい作劇になっている。
何より主人公のふたりを演じる宮沢氷魚と藤原季節のナイーブな演技と娘役の外村紗玖良の「子は鎹」的な落語のような関係性も味わい深い。