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シン・ウルトラマンのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

シン・ウルトラマン(2022年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

 ウルトラマンにそもそも詳しいわけでもなく足を運びたくさせる庵野のネームバリューよ(「私の好きな名前です」)。また「シン・仮面ライダー」の映像もタイミング良く公開され、ここ最近はみんなが庵野漬けにされてしまっている…策士だ。

 冒頭は原作の渦巻くタイトルクレジットに倣い、しかし唐突に「シン・ゴジラ」のタイトルも表示され、その後「シン・ゴジラ」に目配せなあの畳み掛けるような編集と文字情報によって数多の怪獣撃退の説明が為されていく。ここでガッと掴まれるか、乗り遅れるか。前作のスタイリッシュさからは考えられないごちゃつきに、私は乗り遅れ戸惑った。その後もこの戸惑いは続く。カットは細切れだが、テンポは良くない。会話シーンもやたら人物を左右に寄せた切り返しでリズミカルだが、次第にそれを目で追うことに疲れるし、規則的なそれはスタイリッシュさというよりも横着で、目新しさが消えゆく。奇を衒うカットが、同じテンポではその切れ味の意味がないだろう。また、あるウルトラマンの変身シーンだが、進行時間に対して妙な省略がそのカット間に起きている。そこは実時間に沿ってカットは切ってもいいがじっくり見せるべきなのに、カットそれごとに時間も少しずつ省略され、歯切れが良くない。また劇中初のスペシウム光線が発射されるという見せ場も、一切もったいぶらないし平坦に描かれる。また、ゼットンを相手に八つ裂き光輪を放つシーンも、ワンカットで引き画で写すことで、緊張感も無いし、もはやシュールな笑いさえ込み上げた(にせウルトラマンの気だるさも笑った笑、あれは狙ってるか)。そんな中、長澤まさみ演じる浅見登場シーンは異様なまでにもったいぶり、見せたいものの比重がこちらに傾いていたように思う。

 浅見巨人化と、対応するネットの猥雑な反応もそれを物語る。実際、原作でも隊員が巨人化させられるくだりはあるそうだが(最初は「パプリカ」かと思った笑)、昨今の「月曜日のたわわ」が電車広告を降ろされたような問題というか、男性の視線が標榜する女性像を社会に晒す行為として感じてしまう(巨人だから煽り撮影もしゃあないのかもだが)。劇中のサプライズな要素としては大いに貢献していたのだが。また、やたらと尻を叩いて気合いを入れるという人物描写も気になった。女性の撮り方において、美しいとか艶っぽいとかよりも、猥雑さが勝る。あと女性陣の顔の撮り方も男性陣がライティングによって結構影が入ったりしているのに対し、全光で平坦な感じがした。というか、長澤まさみって何演じても長澤まさみでしかなくないか?それがまた既存の邦画っぽさを引き連れてきている感がある。

 今作はそんな感じでそもそも今までの普遍的な昨今の邦画っぽさがある。人物描写や台詞も、「シン・ゴジラ」のような特殊言語とは違った。「シン・ゴジラ」における高橋一生のぎこちない人物像のような、歪さを持ち合わせる役もそんなに無い。ここは明らかに期待値が高かったために感じる違和感なのだろう。近年の邦画よりは断然いいが、「シン・ゴジラ」にも届かない折衷っぽさ。邦画という括りが思った以上に作家性を凌駕し、ステレオタイプなものとして映画に居座っているのではないかと思えた。とは言え、設定としてのリアルさを追求するために、何故日本だけに怪獣が現れ、ウルトラマンが現れるにいたったかをしっかり理由付けしている。ここらへん、かつてテレビシリーズを見てきた人々が、テレビという制限ゆえに曖昧だったもやを晴らされるわけで、数年越しの答え合わせみたいで、さぞ感動したことだろう、と予想する。かつて使用されたであろう効果音とかBGMのレトロっぽさ好きだった。

 「邦画」という前置きに並べて批評されるのはCGのクオリティだ。こればっかりは製作陣というよりも映画に金を掛けられないその制度、システムの問題だろう。先に述べた引き画でカットを割らないのも、予算の都合なんかが過ぎるわけで、何か非常に不自由したんじゃなかろうかと勘ぐってしまう。また、これはウルトラマンが重力に対するエネルギーを持ち合わす性質のせいで、重さ及びスケール感が伝わらない。音もなく歩く姿は、余計にCGのモデリングそのもの感を強め、アクションの迫力を半減させる。せめてもっと風を切る音とか、何か空間にいる存在感を強める音が必要であった。

 また、音声にザーっと音が入ったり、映像がGoProなのか画質が全然合わなかったりと、カメラを沢山回すことによる弊害がここにきて顕著になってしまったように思える。「ウルトラマン」という題材ということで、ある程度古き良き荒っぽさを受け入れることを想定したのかもしれないが、とはいえそのネームバリューから期待される質とは違う気はした。これもまた低予算を勘ぐらせる原因の一つだろう。

 撮影は2019年には終了していたのだそう。ということはコロナ以前に撮られたものであるわけである。2019年にこの終末感を誰が予想できただろうか。しかし、国土が度重なる災害に脅かされる我が国において、それもまた3.11の傷跡を引きずるこの国において、2019年は例外なく同じ不安が募っている。特に迫るオリンピックの掲げる復興五輪の欺瞞への危機感はあったのかもしれない。というわけでテーマは「シン・ゴジラ」と変わらない。ただ少し発展系として、ゴジラのような破壊神ではなく高度な知的生命体との対峙も視野に入ったように思える。つまりそれは政治なわけである。暗躍する閣僚と飛び交う条約、権力者が最もたやすく靡く姿。ザラブ星人が表側しかないのも、まさに表層的な関係しかあり得ないことが示されてるかのよう。対して光の星の純すぎるウルトラマンの光に照らされると、ひょっとして人間もかなり悪だなと思えるわけである。真摯すぎるウルトラマンの態度にはひれ伏すばかり…。

 晴天のわけ。やや町の営みのモンタージュは平穏さの演出としては安直すぎた気もするが、晴天が映されるだけで、誰もがその危機を阻止したことに気がつかないまま日常をおくっているのだった。ここで、「シン・ウルトラマン」を見た我々は日常においてもその晴天のわけを知れるわけで、映画を見た、そしてそこで阻止したウルトラマンを見たという優越を二重に味わう。ちなみに、人類の叡智が阻止したという「シン・ゴジラ」と同様のプロットには、この映画自体もまた人類の叡智によって作られたという自負を感じ、ダブルミーニングに感じた。

 みうらじゅんが、ウルトラマンは仏像がモデルなのだと語っていたのを思い出す。今作のメタリックな宇宙人さをより増した姿は、ある意味金箔を貼られた仏像にも近いのかもしれない。それはまたフォルムだけでなく、光の星から”迷界に下って衆生を救済する”という点でも如来に近い。そしてまた、度重なる震災や疫病によって大仏建立された奈良の大仏のように、この映画もまた今の混迷極める日本に建立された一つの映画なのかもしれない。ありがとう。ウルトラマン。

追記
時間が編集により妙な省略がなされてると書いたが、以下の記事にそれは単に時間だけでなく空間的な省略でもあると書いてあり、成程と思ったので追記。
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