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マーティン・エデンのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

マーティン・エデン(2019年製作の映画)
2.0
[世界は私より遥かに強大だった] 40点

ジャック・ロンドンが1909年に発表した半自伝的小説『マーティン・イーデン』が、ドキュメンタリー作家ピエトロ・マルチェッロの初劇映画『マルティン・エデン』として再び世界に姿を表した。同作は20世紀初頭のアメリカはサンフランシスコで、ある青年を助けたことをきっかけに上流階級の女性ルースに一目惚れした水夫マーティン・イーデンが、粗野な自分を大改革しながら彼女と釣り合うように知識と教養を蓄え、遂には作家として上流社会デビューを飾り、その過程で格差社会など社会問題への言及や空虚な上流社会への幻滅を描いた小説である。その三度目の映像化作品である本作品では舞台が60年代、テクノロジーが50年代、ファッションが20年代か70年代など時代設定がチグハグで、20世紀という100年の中で特徴的で扱いやすい要素をそれぞれつまみ出して平均化するという奇妙な手法を用いて、原作小説にマルチェッロ味を付け足そうとしている。

本作品の(途中までしか読んでないけど原作も含め)中心にあるのはルース、基エレナ・オルシーニへの恋愛感情の変遷である。一目見ただけで身の回りにいる女性と全く違う気品を漂わせる彼女に惚れてしまったマーティン、基マルティンは粗野な自分を恥じて勉学に励み、酒や喧嘩などこれまでやって来たことと真逆のことをして少しでも上流階級に近付こうとする。しかし、出会った瞬間の象徴的な、"(絵画に対して)遠くから見ると美しいが、近くで見るとただのシミのようだ"という言葉が暗示するように、マルティンはエレナのことを理想化した"妖精"としか見えていなかったことが露呈し始める。

それと交差するように登場する社会主義者のラス・ブリセンデンの話は、ロンドンの原作小説とほぼ同じ話をしているのだが、舞台(60年代)とテクノロジー(80年代)から完全に分離してロシア革命以前のような社会主義への幻想的な目線を持っているのだ。これらトンチンカンな改変によって、全体的なピントがブレまくっているようにも見えて、ロンドンが描いた時代から100年経っても"上流階級"の欺瞞は変わっていないことを示そうにも、時代設定のチグハグさから同時代の社会への批評性すら失っており、刃先が鈍らになってしまっているのだ。

それでも興味深い点がいくつか残されている。独学で映画製作を学んだというマルチェッロがマルティンに自身を重ね合わせているのか、彼の物語にはアーカイブ資料映像や他の古い記録映像の断片がサブリミナル的に紛れ込んでいるのだ。これは20世紀への一般化であるとともに、彼がドキュメンタリー作家であった頃の面影を如実に感じる手法だろう。前作『失われた美』の幻想的な描写を踏襲した Francesco Di Giacomo と Alessandro Abate のレトロな発色の画面は確かに美しいし、マルティンを演じたルカ・マリネッリの力強い目線をゴツゴツした身振りにはマーティン・イーデンその人が見えているような感動を覚えてしまう。

追い求めてきた目指すべき場所が幻想で、帰る場所も失ったマルティンは、現実世界のロンドンと同じ解決策を採る。そもそも原作も苦手で、半年で60ページくらいしか進んでない(私の中のマーティンは未だにルースにもう一度会っていない)ので、内容的に原作を忠実に辿っている本作品にピンとこないのは必然なんだろうが、それにしたって改変してまで20世紀を横断させる意味が理解できなかった。
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