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チェリー・レイン7番地のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

チェリー・レイン7番地(2019年製作の映画)
5.0
[猫とシニョレと妄想天国] 100点

ヴェネツィアで上映された時は会場全体がポカンとしていたらしく、星取表でも散々な結果を残していたが、実際に観てみると確かに何が良くないのかは分かる。特に日本人であれば、目に表情がなく、もっさり動く人物たちには奇妙な違和感を覚えるだろうし、所作や動きの滑らかさというか細かさの差異が激しく、最早静止画という場面すら散見された。しかも、大量に投入されたナレーションが(官能)小説を朗読しているかのような語り口で、それに外国産のエロアニメを再現VTRとしてくっつけたかのような居心地の悪さは感じる。しかし、これがまた微妙に癖になるというか、圧倒的に尾を引く。まさか特大ホームランになろうとは…『失われた時を求めて』を浅めに引っ張りながら『紅楼夢』で妄想し、シモーヌ・シニョレと若い俳優との共演を夫人と青年に重ね合わせるその感じは、完全にスノッブそのものだが、冒頭からボールのないテニスしてて完全に『欲望』なんだけど、その後何度か言及されてて上手くないなぁと思ってしまった。一応スノッブ的な描写はなんだかんだ言って解説はしてくれるんだが、正直余計というか、突っ走ってくれ!とは思ってしまった。
(Q&Aで『欲望』のシーンですよね?と言った観客が"『欲望』だと打ったときに音が鳴ってたと思うんだけど、この映画だと鳴ってないのはなんで?"という質問してて、"君は『欲望』には気付いたけど、『欲望』の本質は忘れてたね"と結構厳しめな感じのダメ出しされてた。あれはボールが実際に出てくるとこに全裸の男たち→キンタマを掛けた二重のギャグだし、もっと何かに掛かってくる気がしているが、そんな次元で質問すんなやって顔してた。映画祭の質問って難しいね。)

イギリス統治下の香港で英語を学んでいるのは先見の明(支配言語としての英語と支配国家としての英語=利便性と感情)なのか、それとも興味なのか(文学が読みたかったとか?)はさて置き、それによって魅力的な美人親子と遭遇したイケメン主人公ジーミンが、両方から手を出されるというウハウハ物語が一応の内容である。夫人との関係は文学や映画と文化的に洗練されているものの些か古臭い趣味という感じも否めず、実際に二人の関係は会話と妄想、そしてナレーション(つまり心の動き)が主である。それに対して、娘メイリンとの関係はモダンなもので、ファッションショーやダンスパーティなど実際に体を動かすことが多い。面白いのはどちらも映画に観に行っているのだが、夫人が映画を"観る"そして"語る"ことが重要であるのに対して、メイリンは映画を観に"行く"ことが重要であるように描かれていることだろうか。夫人と観る映画はほぼ全部シモーヌ・シニョレ作品で、シニョレが若い俳優と叶わぬ恋に落ちる話は、そのまま夫人とジーミンの関係に転写され、シニョレの台詞は全部ナレーションが、つまり二人の心の動きとして捉えられていた。それが、最終的にシニョレが自分で話すことで、二人の関係が新たなステージに移ってしまったことを暗示し、実際に物語はメイリンのものになってしまう。

1967年は香港で大規模な暴動があった年で、20歳かそこらの監督もその場に居合わせたらしい。その2年前に台湾から香港に移住した(つまり夫人やメイリンと一緒)監督は、香港の自由な空気が非常に印象に残っているらしく、奇しくも公開と今回の香港でのデモが重なったことに心を痛めていた。また、原作は2012年頃から書き留めていた50作ほどの連作短編小説(来年出版!)のうちの3つを抽出したもので、それが60年代から現代に至るまでのメイリンとその家族の物語だそうな。本作品の中心にいたのはジーミンだったのだが、原作の視点人物は夫人とメイリンなのだろうか。
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