愛したひとをその後ずっとおなじ温度で愛し続けられるのか、とじぶんに問うてみるとやはり自信はない。
恋愛から共同生活になって、ふたりのこどもが欲しいとなって、子育ての共闘者となって家族になって……
おなじ相手と時間を過ごすなかで、パートナーとしての意味も内容も劇的に変わっていく。
その上で互いに期待もするし、素直に支え合える時もあれば、その関係から抜け出せない倦怠感や、応えてもらえなかった孤独も少しずつ溜まり続ける。
近くに居ればいるほど、相手に期待をするなという理屈では己を納得させられなくなる。
生活に伴うある種の犠牲が、シングルのときとは比べものにならないほどお互いを縛るし、全くのまっさらなひとりの時間など存在しなくなる。
生きる活力となっていた【愛】がお互いを縛る関係になったときどれだけ柔軟に己の‘自由’の意味を変えていけるか。
劇中の綺麗ごとでない主張のなかに、その自由を探し続けていた。
男、と女。その役割から父親と母親の役柄を演じ続けていく閉塞感。
ひとりになって息ができる様になったニコール(スカーレット・ヨハンソン)の笑顔は未来を選んだ幸せが感じられ。
自由で孤独になったチャーリー(アダム・ドライバー)の一人称の歌声は意志とは反する未来を選ばされた痛々しさに満ちていて。
どちらからも目が離せない映画体験でした。
潜在的に優先すべきものが
こども≫よき母親>よき父親>男>女
という構図はアメリカにもあるのね、と思い知らされてちょっと萎えましたw
女の背負うものが多すぎるよ、、ちょっと待ってよと。
弁護士のノラ・ファンショー(ローラ・ダーン)の論じることがいちいちごもっともで響きます。