Shingo

HOKUSAIのShingoのレビュー・感想・評価

HOKUSAI(2020年製作の映画)
2.6
イオンシネマのワンデーパスポートを初めて利用しての鑑賞。意外と利用者は多いみたいで、ここのレビューにも5本立てで観賞したと思われるツワモノがいた。
偶然ではあるが、鑑賞した3本がすべて、「表現者」を主人公にした作品だった。その一本目が本作「HOKUSAI」だ。

葛飾北斎の名を知らない日本人はモグリ(?)だが、本作は北斎についてある程度の前知識を持って鑑賞しないと、ストーリー展開におきざりにされるおそれがある。というのも、北斎という人物を詳細に語るような物語ではないからだ。
全四章の筋立てで北斎の生涯を描いてはいるが、若手絵師の時代からいきなり老年期に飛ぶし、最後の瞬間は描かれない。右腕として活躍した娘の葛飾応為についてすら、親を心配する娘としてしか描かれない。
おそらく、北斎の生涯そのものを描くことは、本作の目的ではない。

青年期を描く第一章、第二章には、北斎の他に歌丸、写楽が登場する。どちらも天才肌の絵師であり、心のおもむくままに絵を描けば、たちどころに人の心を鷲づかみにしてしまう。
一方、北斎の方は「絵に色気がない」と一蹴されてしまうばかりだ。己の才覚に絶望し、一度は筆を捨てようとさえする。

両者の違いは、人間に興味があるかどうかだろう。歌丸は花魁に、写楽は歌舞伎役者に並々ならぬ興味を抱き、それを描こうとする。歌丸が女を抱きながらその身体を隅々まで観察する目、写楽が紙にかじりつくように筆を運ぶときの目、半ば常軌を逸したその目の奥から、作品が生み出されていく。

北斎の目は、それに比べるといささか冷静だ。世界をあるがままに観察し、そのままの美しさを写し取ろうとする。草花や木々、山々、海のうねり、それは自然が生み出した芸術。時に、突風という目に見えない自然現象まで、克明に描き出そうとする。その瞬間に見せる狂喜の顔は、まさに「画狂老人」の名にふさわしい。
彼が最後に描いたものは、渦を巻く波そのものだった。

本作は、北斎を題材として、「表現者」そのものを描こうとしているようだ。洋の東西、時代を問わず、表現に取りつかれた人間は数知れない。そういった人々が、時に権力者からの弾圧に遭いながらも、その歩みを止めなかったからこそ、今の「表現」がある。

絵は世界を変える力がある。浮世絵は遠くヨーロッパの画家たちにも影響を与え、ゴッホ、セザンヌ、ピカソをはじめとする数々の画家が、これまでにない新しい表現を生み出した。江戸の浮世絵師たちは文字通り、海を越えて世界を変えたのだ。
蔦屋重三郎が世界地図を広げてみせる場面は、そのことを示唆している。

古今東西、絵を生業とするにはパトロンが欠かせない。日本には活版技術が輸入される以前から版画の技術が発達しており、浮世絵を売る版元がその役の担った。蔦屋重三郎は、後に蔦屋書店=TSUTAYAの名の由来となった人物。
どんな名作も、その価値を見抜く目利きがいなければ、世に出ることはない。「表現者」を描く上で、そのあと押しをした人物にもフォーカスしたのは正しい。

ただ残念ながら、本作は素材をぶつ切りにして並べている感が強く、全体を通してつながりがある物語になっていないように思える。特に後半の老年期は、柳亭種彦との蜜月ばかりが印象的で、斬首された遺体を生々しく見せる場面が見せどころになってしまい、やや軸がぶれたように思えた。
冒頭の場面から、幕府による弾圧が何度も差し込まれるが、種彦の死につながる伏線にはなっているものの、それ以上の意味があるようには見えない。「表現の自由」は大事だが、この作品でそれを主張する必要はあっただろうか。
「表現者」を表現するって、なかなか難しいとは思うのだが、それだけによそ見をせずストレートに描き切って欲しかった。
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