むっしゅたいやき

歌うつぐみがおりましたのむっしゅたいやきのレビュー・感想・評価

歌うつぐみがおりました(1970年製作の映画)
3.8
つぐみ考。
オタール・イオセリアーニ。
本作はイオセリアーニには珍しい無情劇であるが、ストーリー自体は非常にシンプルな物であり、何を言ってもほぼネタバレとなる為、プロットのレビューに就いては割愛する。

本稿では、何故タイトルは、“ツグミ”でなければならなかったのかを考察する。
この為、興味の無い方には読み飛ばして頂く様お願いする。

扨、この命題を理解するには、先ず原題から正しく認識する必要がある。
ジョージア語での原題『იკო შაშვი მგალობელი』は直訳すると、『昔々あるところに歌うツグミがいました』となり、ツグミ属を混同し勝ちな為、本稿は英題『Once upon a time there was a Singihg Blackbird』に倣う事とする。
尚、タイトルはジョージア国のおとぎ話の語り口から採られている。

英語で言う“BlackBird”は鳥類ツグミ属の中でもクロウタドリを指し、本邦でよく見られる同属トラツグミやアカハラとは姿形も囀りも、大きく異なる点に留意されたい(本邦に渡って来るクロツグミと比肩される事も有るが、別種である)。
ツグミ属クロウタドリは「ヨーロッパ三鳴鳥」の一つとしてナイチンゲール、ロビンと共に数えられており、その美しく明るい、且つ力強い囀りは春の訪れを告げるものとされている。
文芸作品への登場例も、マザー・グースの『六ペンスの歌』、『コック・ロビン』、またシェークスピアの歌劇からビートルズの楽曲等、枚挙に暇が無い。

では、本作に於けるこのツグミへの投影と、タイトル反映の必然性は何であろうか。
私には本作は、イソップ童話『ツグミと鳥刺』やシェークスピア歌劇へのイオセリアーニ流オマージュに思えてならない。
贅沢故に留まる処を知らず、身を滅ぼすイソップ童話のツグミは、本作に於けるギアと重ならないだろうか。
また、『ヴェニスの商人』のポーシャが婿選びの際に語った、「ツグミが歌えば踊り出す、人間とは名ばかりの人真似猿」とは、レストランでギアを待ちながらも歌に気を取られたあの友人に重ならないであろうか。

ツグミ属は両足でぴょんぴょんと地を跳ねて落ち葉の下の餌を探す。
その姿は仕事にも女にも家族にも、良い顔を向けながら一処に留まらないギアに比定されよう。

本邦とは異なり、南カフカスのジョージア国に於いてツグミは渡りを行わない留鳥であり、人々はその囀りを日常の中で親しんで来た歴史を持つ。
ワイン用のぶどうを食害すると言う面をら持ちつつも愛されて来たこの鳥は、本作を撮る上で主人公ギアの性格を定める一要素となった事は想像に難く無い。

余談であるが、本邦では長きに渡ってツグミを食用に供した。
現在は法令に拠り猟も網の作成も禁止されているが、私も古老より、かすみ網にて捕らえたツグミを焼き鳥にして食べたと聞いた事がある。
また池波正太郎であったと思うが、その作品の中で「つぐみ鍋」と云う物が登場し、一度食べてみたいと思ったものである(当時供する店をインターネット上で探索したが、未見である)。

本作は、止まっていた腕時計の雁木車が再び動き出すと云う象徴的なシーンで終わる。
これに就いてはアカデミアでジョージア国のお伽話に関する各論文に当たってみたが、論考の海に呑まれ、未発見である。
ご存知の方が居られれば、補足をお願いしたい。
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