【はまらぬ歯車】
特集上映『オタール・イオセリアーニ映画祭』にて。
ようやく、初期ジョージア時代の作品を見ましたが、得難い体験でした。
一次的には、イオセリアーニ流の“日常系”映画ですね。
トビリシオペラ座の交響楽団、ティンパニ奏者である主人公ギアは每日、“無為に”忙しい。
彼はやることなすこと半端で、ADHDかもしれないが、憎めないなあ…とも感じない。こういう毎日は退屈だし、羨ましくもない。時間をどう使うかは自由だけれど、例えば、使命のある人がこんなコトやってたら、何も達成できず、人生虚しく終わるコトでしょう。
因みに名前の綴りはGiaらしいが、英語のGear(=歯車)を意識しているのか?ベタだけど。
しかし、見ているとギアはガイド役でもあり、彼のスチャラカな行き来からジョージアの首都、トビリシの日常を刈り取ることが…むしろそちらが、映画の大きな目的に思えてくる。
ネットで面白い視点を拾ったのですが、ジョージアを知る人によると本作は、現地名物カタログともなっているとか。音楽、バレエ、ワイン…当時は時計や製薬力も、だったらしい。
特に、ポリフォニーのシーンは飛び抜けて心を、強制的に漂白させるパワーがありますね!歌うは黒ひげマリオブラザーズみたいな集団なのに、なんといふ透明感!
これは、かつて上映禁止をくらった監督ならでは…というか、共産圏の映画制作テクで、“民族の誇りを高める”ことを推すことで、政府から皆、上映許可を得ていたそうです。
そんな事情なら、ギアという人物の造形は戦略的でもあり巧いかも?と思えたりします。
そして、当時かの国はソ連の一部だったことを踏まえると、“時間をどう使うかは自由”と書きましたが、好き勝手に動いても見えない壁に阻まれる每日…的な表象は、“不自由の中での自由”ということの言い換えか?とも思えてくるのでした。
そうなると、ラストのアクシデントはイオセリアーニの最後っ屁か?とも受け取れますね。
あの結果がどうなったかは明示されませんが、私は、あの後の時計店までにカナリの時間経過があり、あの職人の素振りは“彼はもう戻らない”と体現しているように思えました。
等々、様々な想いを巡らせられましたが、それ以上に本作の焦点は、図と地でいえば…図であるギアと、地であるトビリシ・ライフ…それ以外の何処かを狙っているように思え、それが私には定まらなかったのでモヤが残り、しかしそれが、本作の魅力だろうと予想します。
“ティンパニ・サスペンス”はヒッチ『知りすぎていた男』でのシンバルじゃん!と思ったwww 鳴るか鳴らぬかで分かつのが身体的な死か、社会的な死か、との違いはあるけれど。
<2023.3.17記>