さっこ

シャイニング 北米公開版のさっこのレビュー・感想・評価

シャイニング 北米公開版(1980年製作の映画)
3.0

これを見るために原作の文庫上下巻読んだ。
映画を見る前に原作を読もうと思いつつ後回しになって、気がつけば20年経ってしまった。
今回リバイバル上映ということで、20年越しでようやく原作読んで、映画も見れた!
もはやアニメ「フランダースの犬」の最終回状態😭
(※主人公ネロがずっと見たかったルーベンスの絵を見に行く)




ところが…
え?ぜんぜんおもしろくなかったよ😨
ゴゼジュー見に行ってこんなことは初めてだし、
キューブリックの映画でつまらなく感じたのも初めて。
ぜんぜん「フランダースの犬」最終回にならなかった😭
(※ルーベンスの絵を見て、ネロが「もう思い残すことはない、疲れたよパトラッシュ…」とか言う😭)

なんでこんなことになったのか…🤔
それは事前に読んだスティーブンキングの原作があまりにも素晴らしくて感動しちゃったから…だと思う💦

とゆーことで以下、ほぼ原作📘の感想。



ホテルのお化け👻より怖いのは、目の前の生活。
お化け👻が出るからと言って、ホテルの仕事やめたら生活できない…。
ものすごく身につまされる話なのだ。

主人公は家族を養うことと、作家としての夢を追いかけることの間で苦悩する。
そして彼は過去アル中だった🍺🍶🍸🥴
そして癇癪カンシャク持ち。すぐキレる。
それが原因で教職をクビになったし、最愛の息子の腕を…💥

妻はアル中時代の失敗に対して、直接言わないけど、言外に責めている。
彼の父親も大酒飲みで母親に暴力を振るうろくでなしだった…。

こうした様々な現実の問題がお化けより恐ろしい。
そこに猛烈に感動した。
(その辺の心情が映画はあまり描かれてないし、カットされている)


そして最終的には狂気のジャックニコルソン状態になるのだけど、
幽霊ホテルの仕業というより、問題を抱えていた男の不満が爆発して家族にDVをしているように読める。
そこも本当に素晴らしかった😨

ちなみに「フランダースの犬」最終回はすごい泣けるけど、意外なことにシャイニング原作のラストも泣いてしまった。感動的なエピローグだった(映画ではカット)。





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以下、全く無関係な話。すぐ消すかも。
小山田圭吾について思ったこと。
(※読まなくて大丈夫なヤツです💦)


小山田圭吾52歳が今になって学生時代のいじめについて謝罪した。その後、五輪仕事を辞退した。
小山田圭吾(コーネリアス)は90年代半ば頃に過去にいじめをしたと雑誌のインタビューで語っていた。
その記事をネット黎明期に晒されて、それからずっと叩かれ続けてきた。


自分はこのことにずっとモヤモヤしてきた。


(自分は別に小山田圭吾、フリッパーズギターのファンではない)



いじめ自体はもちろん悪いことである←これ前提。
だけど小山田圭吾の、いじめをした発言って「90年代悪趣味文化」の影響なんだよね。
時代背景を知らずに叩くことは違うと思う。

当時、悪趣味で露悪的なことを言ったりするのが、サブカルチャーのトレンドとしてあったんですよ。
(まぁ例えば犯罪報告とか薬物体験談とかアメリカの連続殺人犯を称賛したりするようなの)

知らない人はなんでそんなものが流行ってたの?と思うだろうけど、当時は「ネットのない時代」である。
テレビのキレイゴトやオブラートに包んだものばかりが若者に提供されていた。
そうした時代のカウンター、アンチテーゼとして「悪趣味鬼畜文化」が出てきたんだと思う。
(悪趣味文化の中心的存在だった漫画家根本敬は自分は大好きです。今でも。漫画も活字も好きだし、イベントにも行ってお話もさせて頂いた。思いっきりファン)


さらに、フリッパーズギター解散後、明るくメジャーな方向に行った小沢健二に対抗して、逆方向に行こうとしたのかも…。
まぁそれは分からないが、小山田圭吾がセルアウトな方向ではなく、ダークでコアなものを目指していたのは明らかだった。
それで「悪趣味文化」の波に乗っちゃったってのはあると思う。
なので、いじめエピソードもどこまで本当かは疑わしい。


で、悪趣味文化については、それこそヤバい発言が当時いっぱいあったので、今の時代に照らし合わせたらアウトなのは小山田圭吾だけじゃない。
ネットに過去の記事を晒されたか否かの違いである。
(ただ小山田圭吾のいじめの話は当時としても酷いものだった→だから晒された)

まぁ以上のことから背景を知らずに叩くのは軽々しい行為だと思う。





で、もう一つ言いたいのは、叩く側の問題について。
小山田圭吾を20年くらいずっと叩いてる、さらには小山田圭吾の息子まで叩いてる人たち。ずっと粘着する人たち。
もはや、そっちもいじめみたいなものだ。

2000年代に自分が最初に小山田圭吾のいじめの話を知った時は、こりゃ許せんな、という気持ちもあったんだけど。
さすがに、それを20年叩いて音楽活動もさせないようにしてる様を見てると「もういいだろう…」という気持ちになってくる。

それからリベラルの観点から批判する人たち。
小山田圭吾のことに限らず、過去の言動を現代のコンプライアンスに照らし合わせたら、そりゃおかしなこともあるだろう。
リベラル主義自体は間違ってないはずなのに、盛んになりすぎて、声が大きくなりすぎてしまっている。

日本のリベラル主義は、ネットの悪い部分との融合が顕著で、どうなんだろうと思うことが多い。
さっこ

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