ぐち

コリーニ事件のぐちのネタバレレビュー・内容・結末

コリーニ事件(2019年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

戦中のナチス犯罪を扱う映画と思いきや、現代ドイツの刑法の落とし穴こそを告発する、「過去の」映画ではなく「現在の」映画だった。

コリーニのプロフィールなんて真っ先に調べると思うんだけど最初に全く出てこなくて困惑したし、やっぱり彼の過去に原点があったんじゃん!ってなってしまった😅
特に訴訟を起こそうとしたことなんて調べればすぐに出てくるのでは…?訴訟自体に至らなかったから記録がなかったのかな…?
あとやたらと仲良さそうにしてた主人公の幼馴染みの男の子は何の役割だったんだとか、更にその子と両親がいっぺんに死んでる設定は何だったんだ(しかも演出的に何か意図があるように見えてそっちに引っ張られてしまう。ミスリードを狙うにしては別に効果的ではない)とか、速読できる父親とか便利すぎるしピザ屋の女の子も良い感じに登場する割にはやっぱりただの便利キャラになってるし、最後の方で協力してくれる学生時代の同期たちもぽっと出だし、良いキャラ揃ってるのに使い方が上手くなかったな。原作があるということなので、全体的に原作の要素を映画の短い尺に上手くまとめきれなかったのかな?と思った。

映画として荒が目立つけど、一つのカットの中でカメラが縦横無尽に動いて人々が行き来し物語が生まれるカメラワークは面白かった。時代を行き来するこの映画の構成として、各時代に観客を導く導入になってたと思う。

それにこの映画の本質はそこじゃないし、メッセージは的確に伝わってくる。
殺害された被害者の過去の犯罪を暴くことについて「彼は家族想いの良い人だった。大切なのは今の私たちでしょう」と言う被害者遺族、ナチスの戦争犯罪を無罪にしかねない法律をつくったことに対して、「当時は時代が違った。ただのいち弁護士に過ぎない私に何ができる。私は従っただけだ。」と言う現在の大物弁護士。
これらの台詞は、「凡庸な悪」と形容されたユダヤ人虐殺の戦犯アドルフ・アイヒマンやその他のナチス戦犯たちの言い分と全く同じで、それがそのまま現代で発せられても違和感がないという普遍性を突きつけられる。

自国の過去の犯罪と現在を、「世界有数の法治国家」としてのドイツの法の落とし穴を、法を扱う弁護士に、新時代としての若者に、真っ向から挑ませるその胆力に恐れ入る。
しかもこの法の不備は原作小説をきっかけに知られることになりドイツ司法が動くきっかけになったらしい。私は実際の事件を元に描いたのかと思ってたんだけど逆だった。すごいな、、、

何より良かったのは、「今とは時代が違う。後の世代のお前に何がわかる」と言われた主人公が、新しい世代が、「それなら現代の価値観と照らし合わせて、今、過去の行いを正せ」と突き付けたことだ。
そう、皮肉にもマイヤーの孫のヨハナも言っていた。「大切なのは今でしょう」と。
これは現代の話だ。

戦中の犯罪だけでなく、戦後のドイツ、現代の世界を炙り出す。過去の世代と今の世代が向き合うべきこと、「刑法」そのものや「法治国家」について疑問を突きつける良作。


追記)
パンフより。
ナチの戦犯は戦後のニュルンベルク裁判であらかた裁かれたと思ってたんだけど、どうやら一度公職から追放されていた官僚たちは、世間の記憶が薄れ出した50年代以降、また元の地位に舞い戻ってきていたらしい。司法省の高級官僚の8割が元ナチや親衛隊のOBであったというのだから目眩がする。
しかし60年代前半にアドルフ・アイヒマンが潜伏先で捕らえられて法廷に連行される。それに伴い他の収容所の関係者たちも起訴され、世間の関心や記憶が再び寄せられることとなる。
映画の中で問題となっているドレーアー法は、68年の法改正でつくられている。
これの意味するところは明らかだ。

上記はパンフの解説からの引用を含んでいるけど、同じパンフに載っていた憲法学者の木村草太さんのコラムではまた少し違った意見が書かれていた。
法改正の時点でナチ犯罪追及への悪影響に気付いたものは少なかったらしい。
つまり、殺人罪をその動機で区別する法改正は合理的だと思われていたのだ(あるいは、当時盛んだった学生運動の末に人を殺めてしまった犯人への救済措置であった法改正を、ナチ犯罪追及を止めたい人間が利用したとも考えられる)
木村さんの、『立法や法改正・法解釈に関わる者は、それがどのような帰結を持つのか、慎重に見極めなくてはならない。民主主義国家においては、全ての市民にその責任があるということだ』という言葉が重い。
ぐち

ぐち