nucleotide

失くした体のnucleotideのレビュー・感想・評価

失くした体(2019年製作の映画)
4.5
われわれは多かれ少なかれ、身体を通じて世界との直接的な繋がりや共感を感じている。見えるもの、聞こえるもの、触れるものといった「私の」感覚という自己性や「親しさの感じ」を媒介にして、世界や他者と連絡し、交流しながら生きている。本作で描かれる「右手の喪失」というモチーフは、身体の疎外が感覚の疎外を引き起こし、それによって世界に疎隔される孤独や恐怖、そしてその切断された右手が身体へと辿る旅路は、疎隔された世界への回復を目指す精神の姿なのではないだろうか。

主人公の青年は、幼少期に交通事故によって両親を失っており、その事故の原因は自分にあるという罪の意識を抱えながら生きている。それは執拗に繰り返される過去の記憶や、両親の肉声を録音したテープ(これはエヴァンゲリオンの影響を感じさせる)によって端的に示されている。自己というものは決して自分だけで自分を捉えているわけではなく、世界や他者を媒介として、いわばそれらの反照として自己を捉えるという、媒介された自己確認の面がある。そこで両親を失った経験などにより対象が希薄化すると、それが照り返して、自分自身もだんだんと希薄化してしまう。われわれは世界や他者と交流することによって自分自身を養っており、そういった自己培養が無くなると自己によってのみ自己を確認するという悪循環に陥り、自分自身が貧困化し不安定な存在になってゆく。本作は、そのような自閉的世界において、主人公ナウフェルとの鏡合わせのように、図書館司書ガブリエルもまた世界や他者と没交渉に陥っていく主体として描かれている。彼女の務める先が「モーパッサン図書館」であることが(旧時代的な、ではあるが)不幸な女性像を象徴しており、また、好きな作品だと主人公に手渡す小説が『ガープの世界』であることが、緩やかなミサンドリー、つまり男性との断絶の記号として機能している。しかしそうした特徴付けの一方で、主人公との恋を予感させるような心理描写もほのかに示されており、それら内面的自己と外面的自己の意識の対比構造が、非常に不安定なバランスで組み立てられている。自意識が深化することによって、本当の自分は内に隠されていて誰にも理解されない、というような内面の自己と外面の自己の分裂が惹起され、その一方で、無媒介に世界や他人と繋がり、無媒介に真の自分を外の世界にあらわしたいという引き裂かれた欲求が見え隠れしているようにも思える。そうした意味においても「切断された右手」はシンボリックな印象を与える。

この物語の「着地」は苦く、切ない。彼の心のなかに萌したものがなんなのか、それはわれわれ観客に委ねられるところだが、決して絶望はしていない彼の姿に勇気付けられるのは、みな同じではないかと思う。