河

情事の河のレビュー・感想・評価

情事(1960年製作の映画)
5.0
狂ったくらい良い映画だった。

父の家の周囲は開発されていき、父は仕事を辞めていてその辞めた自分に適合しようとしている。父が気に入っていると思っていた水平帽をアンナはもう被らなくなっている。冒頭に示される変化、移り変わりの予感に対して、アンナにはその予感のみがあるだけでその訪れつつある変化の先にあるものが見えない。そしてその先の見えなさが彼氏との関係性と重ね合わされ、主人公はその変化を象徴するような父を一方的に見つめる。
その変化を感じつつも先が見えないことに対する不安がアンナを支配している感覚がある。先が見えないからこそ全ての未来の可能性を捨てられない、選択肢を選べない、だからこそ会いたくない一方で誘うなどの行動の矛盾、揺らぎがあるように感じられる。そして、そのアンナの中での不安、揺らぎや可能性の衝突のようなものが火山島に打ち寄せる波、水流や岩肌、転げ落ちる岩などの映像によってなぞられていく中、アンナが失踪する。
アンナの不在の中においてもその内部は火山島の自然によって象徴され続け、その不在によってアンナの不安が他の登場人物達に伝播していく。それによってアンナが火山島になり、その火山島が他の人物を飲み込んでいくような感覚がある。そして、映画はアンナの不在を中心として残された人物達、アンナの彼氏であるサンドロとアンナの友人であるクラウディアの揺らぎに移行していく。

登場人物達が火山島を後にして以降、そのアンナの不在による直接的な感情の影響が急速に薄れていき、アンナはその彼氏にまだ彼女がいるという事実のみに存在を残し、その失踪はイタリアでは何万回とある中の一つの出来事と化していく。そして映画はサンドロとクラウディアのメロドラマに切り替わっていく(終盤で再び前半のテーマへと回帰していく中で、それが「メロドラマじゃないんだから」とメタ的に否定される)。

失踪の翌日、アンナの服を着ていたクラウディアはアンナの生まれ変わりのようにサンドロに恋し、アンナと同じような関係性を再生産するようになる。クラウディアは元は自分の感情に対して全てを理解したい / している人だったが、その関係性を通してアンナと同じような複雑性を抱え始める。サンドロからの結婚の提案がそれに気づく契機になっており、気づいた瞬間に結婚を祝福するように鐘が鳴り響き、その後ミュージカルのように歌い始めるという熱に浮かされたようなシークエンスに続く。

アンナと接したように見える人々の証言はアンナの行動と同じく矛盾する。そしてサンドロがその証言を元に痕跡を辿っていく過程はアンナの矛盾した行動を辿っていく過程と重ねられる。その複雑さをアンナに対しても、クラウディアに対してもサンドロは理解しようとせず、逃げるようにかわし続ける。それがアンナの失踪に繋がるものであると同時にその矛盾した痕跡を紐解けずアンナを見つけることができない理由にもなっている。

クラウディアがアンナと同じように複雑さや不安を抱えたことによって、サンドロはアンナにしたように逃げるように他の女に浮気する。そしてサンドロとクラウディアの関係性はアンナとのものと同一化する。

サンドロは設計士であったが、今や他人の設計を元に計算を行うことを仕事としていて、建物の絵を描いていた若い設計士によって乗り越えられる存在となっている。アンナの父と同じように過去の人となっていく。時代を経るごとに過去のものになるスパンが短くなっていることが「美しい建築物も今や数年で潰される。昔は数世紀残ったのに」というような建築物へのセリフによっても示される。
それによってサンドロ自身もその複雑さを持つこと、そして他者の複雑さ、未来への不安ようなものの理解から逃げ続けている理由がそれを自分も持っていて、それから逃げ続けているからだとわかる。アンナはその不安によって失踪し、サンドロはそれによって泣く。それに対して、クラウディアは泣いているサンドロを撫でながらその不安と対峙する。
アンナが聖書を持っていたことに対する父の「神を信じるものが自殺するわけがない」というセリフは、アンナの生死が最後までわからないことによって、信じられる神がいなくなってしまったのかもしれないという意味に変わる。そして不吉な予感と共に映画が終わる。

最後になって序盤の「人間は元来海の生き物だった」というセリフが原初から不安に溢れた今に至るまでの距離感を感じさせたり、サンドロの「アンナは僕達に対して不足を感じていた」というセリフがその後アンナと同一化する二人の心情を補強していたり、見せ物のように現れた娼婦とそこに群がる男達のイメージが、浮気した後のクラウディアが同じように男達からの目線を集める(もしくは集めているように感じている)ことで、その見せ物としての娼婦とクラウディアが同一化させられるなど、あらゆるセリフやモチーフが互いに反響し合っている。

アンナの父への視線、火山島のシークエンス、結婚の提案のショットだけでなく、初めて関係を持つシーンでヒッチコックのように象徴的に走っていく電車が一方で不安感を煽り目を覚ますような騒音を持っている、サンドロが何かを決める瞬間に暴力的に鳴り響くテレビからの戦闘機のような音とその部屋の暗さ、クラウディアの孤独への予感と対応するような長い廊下とそこによるべなく響く足音など、感情が映像として噴出するような瞬間がいくつもあり、映画自体が感情に呼応してうねっているような感覚がある。
登場人物に共感できずともその感情のうねりを映像によって感じさせられるのが映画だと濱口竜介の『ハッピーアワー』を思い出しながら思った。映画を見ているっていう感覚がずっとある非常に良い映画だった。

内容、感情と映像が同期する感覚、映像、感覚的な連続性や反響によって映画が一つの全体となっているような感覚など、バーグマン時代のロッセリーニと共通するところが多い。火山島のモチーフはおそらく『ストロンボリ』からのように思う。ただ、ロッセリーニの即興的な感覚とは違い、構図を含めた全てがかなり緻密に組み上げられてるように感じた。
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