sanbon

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホームのsanbonのレビュー・感想・評価

4.4
孤高の「親愛なる隣人」への"ラストステップ"。

まずこの作品について、これだけは予め前置きしておかなくてはならない。

今作は「アベンジャーズ /エンドゲーム」並みに"超絶敷居の高い"作品となっている為、十分に本作を楽しむ為には、実写版スパイダーマン(東映版など90年代より以前の作品を除く)を"全作網羅"していないといけない為「MCU」版スパイダーマン2作は勿論「サム・ライミ」版3作と「アメイジング・スパイダーマン」2作の、計7作を"必ず"事前に観ておく必要がある。(アニメ「スパイダーバース」も観ておくと尚良し)

「観ておいた方が楽しめますよ」レベルではなく、"必ず"だ。

何故なら、今作は20年の月日を掛けて紡がれた実質的な「スパイダーマン8」なのだから。

今になって思い返してみると、本当にこのMCU版スパイダーマンは、どこまで先を想定して制作されているのか分からないくらい、考えただけでも背筋が凍る程の周到さである。

まず、今シリーズが始まった当初に皆が思ったであろう最大の違和感があった筈だ。

それは「ベン叔父さん」が登場しない事である。

本来のスパイダーマンは、ベン叔父さんとの"死別"がヒーローとしての覚悟を決めるきっかけとなるのが、序盤における重要なシークエンスになる筈なのだが、今シリーズのスパイダーマンは「トニー・スターク」からスーツを与えられ、既に蜘蛛に噛まれ特異体質を得た状態での初登場となっていた。

「ホームカミング」冒頭の「ピーター・パーカー」が持っていたスーツケースには「BFP(ベンジャミン・フランクリン・パーカー)」のイニシャルが刻印されている事から、MCUの世界にもベン叔父さんは存在している筈なのに、何故か登場は一切しないのだ。

これは、別作品として過去2度に渡り描かれた事のあるシーンだった事から、単純にくどくなる事を避けた結果の"割愛"だったのだと当初は解釈していたのだが、なるほど、全てはこの3作目での展開を描く為の"順序の入れ替え"に過ぎなかった訳か。

それを知ったが最後、最早"死の呪文"ともなっている「大いなる力には、大いなる責任が伴う」をあの人が口走った時には、思わず「それを言っちゃあお終いよ…」と心の声が自然と漏れ出てしまっていた。

でも、やはりスパイダーマンをスパイダーマンたらしめる"トリガー"として、この言葉はなくてはならない存在であり、この言葉が囁かれた前と後では、明確に"ヒーローとしての在り方"に線引きが出来る事を考えると、3作目にして"こここそが"MCU版のスパイダーマンにとっての"ターニングポイント"である事は疑いようがないだろう。

そして、今シリーズのスパイダーマンは過去の歴代スパイダーマンに比べても、"圧倒的に弱い"。

カテゴリー別けすると、サムスパは「頭脳」アメスパは「身体能力」が特に優れているようなイメージになるが、今作のMスパのイメージはただの「ガキ」なのだ。

そう、今作のピーター・パーカーは、秀才ではあるがどこまで行っても一人ではなにも出来ないガキなのである。

それを印象付けるように、今シリーズは周りの大人がピーターの事を一貫して子供扱いし続けているのが分かる。

戦闘スキルもスーツの性能にかなり依存しているし、科学力だって「スターク社」を頼りきった状態に終始している。

なにより、今シリーズのスパイダーマンには「アイアンマン」や「ドクター・ストレンジ」といった、"保護者"としてのヒーローが必ずセットで登場する。

その上で、その保護者にわざと迷惑をかけるが如く、忠告をことごとく無視しては自ら窮地に立たされる展開を繰り返してきたこのMスパは、今作でもストレンジと敵対する勢いでまたもや言いつけを次々と破っていく。

事態を収束させたがっているとは到底思えないその"逆張り"っぷりに、観ているこちら側も正直イライラさせられっぱなしになるのだが、ここまで執拗なほど"頼りなく弱い子供"の印象を貫いた今シリーズの意図が、ようやく、ようやく今作を観終える事で理解が出来た。

要するに、MCUは本来見せるべき"スパイダーマン像"を、敢えて"まだ見せていない"のである。

そして、もうご存知の方も多いかと思うが、先日プロデューサーである「エイミー・パスカル」から公式に「トム・ホランド」が続投するスパイダーマン新3部作の制作が発表された。

その情報を踏まえた上で今作の内容を思い返すと、これまでの全てのシリーズは次回作から続く「究極のスパイダーマン」を描く為の、壮大なる"プロローグ"だったに過ぎない事がよーく理解出来る筈だ。

つまり、スパイダーマンはこれで"終わる"のではない。

帰る場所を取り戻す為、スパイダーマンの本当の戦いは、正に今、ここから"始まる"のだ。

更に、今作の最大の見どころと言えば、なんと言っても作品の垣根を越えた"共演"にある。

今作の敵は、全て過去のシリーズからの出張ヴィランとなっており、サムスパからは「グリーンゴブリン」と「Dr.オクトパス」と「サンドマン」が、アメスパからは「エレクトロ」と「リザード」がそれぞれ登場し、その数はなんと5体にも及ぶ。

そんな数を一体どうやって映画一本で捌くのかは観てのお楽しみであるが、数以上に凄いのはその全員が役者も誰一人変わらぬまま、過去のシリーズの"延長線上"から本作に集合している点であり、つまりはサムスパやアメスパの後日談、もしくは最中の出来事から本作へと直接物語が結びついている事である。

もうこれには怪我の功名というか「SONY」様々としか言いようがないし、仮にもしスパイダーマンの版権が「Disney」へと返還されてしまっていたら、このような作品は決して生まれなかった事を考えると、今にしてみればこれが目的でSONYと「MARVEL」は現状の関係に落ち着いたとまで思える訳で、あのトラブルうんぬんの"いざこざ"も、もしかして読者を欺く為のフェイク⁉︎と勘ぐりを入れてしまう程の、上質なトリック小説を読んだ気分にもさせられる。

そして「アメイジング・スパイダーマン2」が最も好きな僕にとっては、時計塔から落ちる「グウェン」を助けようとする"あのシーン"をオマージュした"あのシーン"には、我慢しきれず思わず涙腺崩壊。

この、ただ全てを結び付けるだけではなく、スパイダーマンという物語に関わった全ての"まだ間に合うもの"をなにもかも救おうとする展開には、意図せず暴走してしまったヴィランや、それを食い止める為やむなく殺めざるを得なかった過去のスパイダーマン達の心すらをも救済しようという心意気がストレートに感じられ、ラストの畳みかけには流石に感動を禁じえなかった。

なにより、そうする事によって偶発的な事故によりスーパーパワーを得るに至ったという点では"同じ立場にある筈"のヴィランとスパイダーマンの"最大の違い"をも明確に示す事となり、ラストの展開にはそういった部分にも大いに唸らされるところとなった。

それこそまさに「大いなる力には、大いなる責任が伴う」を体現するような展開を実直に描けていたと思う。

"力"とは"権力"や"暴力"ではないのだ。

それを"理解"し"制御"しながら"行使"する事こそが、大いなる力を得た者に課せられた大いなる責任と言えるのだろう。

さあ、なにはともあれMCU版スパイダーマンはまだまだ続く事となり、次こそが本当に"裸一貫"己の実力のみで世界を守る究極のスパイダーマンの登場である。

タイトルも「THE・SPYDER-MAN」でもいいと思っているくらい期待しているので、早いとこ続報プリーズ‼︎‼︎

ちなみに、今作では前作、前々作のポストクレジットの内容は未だ回収されず。

「ヴァルチャー」と「スコーピオン」は次と考えれば、仕切り直しには丁度いいのかも?





ここからはネタバレ





今作のポストクレジットを観る限り「ヴェノム」とスパイダーマンが共演する事はあっても「エディ」とスパイダーマンが同じスクリーンに登場する事は無いのだろうか?

そして、展開的に「フラッシュ」がヴェノム化しそう。

こちらとしては、トムホと「トムハー」と時々「中村獅童」の掛け合いは是が非でも見てみたいんだが。

あと、なに唐突に「デアデビル」登場してんねん⁉︎

「ホークアイ」には「キングピン」も出てくるし、スパイダーマンのヴィランサイドのストーリーを作ってるのは「SSU(ソニーズ・スパイダーマン・ユニバース)」の筈なのに、MCUでも今度はキングピンの部下の「エコー」のスピンオフドラマも始まるし「モービウス」にはヴァルチャー役の「マイケル・キートン」出てくるし、モービウスの世界の「オズコープ」のロゴがアメスパの物に似てるって情報もあるしで、スパイダーマン絡みだけで展開が目白押しすぎて、非常に困惑しております。嬉

どうなっちゃうんだよ!マジで!
sanbon

sanbon