こうん

リチャード・ジュエルのこうんのレビュー・感想・評価

リチャード・ジュエル(2019年製作の映画)
4.3
スコセッシですらなかなか映画が撮れない時代に、飄々と淡々と年に1本の映画を撮り続ける映画翁クリント・イーストウッド。
信者として贅沢なこと書くけど、こんなに毎年新作が観られるなんてありがたいけど逆にありがたみもなくなるなぁ。でも鈍色のWBのマーク観るとテンション上がりますよ。

さていつもにもまして製作開始→公開のスパンが短かったイーストウッド翁の新作は、またしても実話の映画化。
日本でぼんやり暮らしているおれでも知っている、アトランタオリンピック爆弾テロ事件でいち早く爆弾を発見し対処した警備員のオハナシですが、「父親たちの星条旗」「アメリカン・スナイパー」「ハドソン川の奇跡」「15時17分、パリ行き」でさまざまに語られてきた、”アメリカ”に”英雄”とされてしまった、小さな小さな個人の物語です。

リチャード・ジュエルという男の受難と、FBIやマスコミ、それを受けとる大衆の愚かしさの暴走は、ここ日本でも他人事ではないですね。
松本サリン事件の過熱ぶりとワイドショーの娯楽化はよく覚えているし、ワイドショーの娯楽化という意味では和歌山ヒ素カレー事件とか秋田児童連続殺人事件とかも想起するし、見込み捜査による冤罪というところでは東電OL殺人事件のゴビンダさん(アリバイ的には完全にシロなのに…)とかを思い出したりしました。

しかし思ったより、というか信者としては推して知るべしなんだけど、僕たちがイメージするアトランタオリンピック爆弾事件そのものというより、その騒がしい周辺よりも、中心人物たるリチャード・ジュエルという人間の傍らに寄り添うような物語りで、彼と彼を信じる人たちの信念を錘として静かに淡々と進んでいくナラティブはいつものイーストウッド節というもので、しかしやっぱり面白いんだ。
家2軒だけで傑作(「グラン・トリノ」)をこさえてしまうイーストウッドの呼吸が、有酸素運動的な映画的呼吸が横溢しまくっていて、なんとも心地よい131分でございましたね。

何をどこからどのようなサイズで捉えどのような時間で見せることが適切か、それを体で分かっている人の映画は心地よいです。イーストウッドはおそらく後天的に、スピルバーグは先天的に体得しているんでしょうな、その呼吸というものを。それは信者の贔屓の引き倒しかも知れませんが、事実としてイーストウッドの映画を観ていて1秒たりとも眠くなったことはありませんですよ。(でもすみません「Jエドガー」は寝ました)

映画は観客から時間を奪うメディアですが、ここまで心地よく奪ってくれる(ついでに心も)映画製作者はなかなかいません。人を2時間前後座席に固定させる技術というのは、よくよく考えると、すごいっすよ。

権力やメディアや扇動された大衆の恐ろしさというのを描いている側面のあると思う映画ですけど、イーストウッドの興味としては、この実話を(本作に限らず)現代の神話として捉えているのではないか、なんて思いましたね。
基本的にみなカッコつきの”英雄”とされる主人公ばかりで、様々の困難を乗り越え、真の英雄として帰還する姿を描いているのではないかと。
そしてその主人公たちは必ずしも聖人ではなく、長所短所のある人間で、しかしきわめて卑近な愛国心や正義感に基づいて行動したが故の結果であり、その結果をめぐるドラマであるところが、なんというか、現代アメリカの路傍の神話、という感じがします。
イーストウッドがそこに何を仮託しているのか、それはキネ旬とか読めばわかるのではないでしょうかw

なにはともあれ、イーストウッドが「この役のために生まれてきたのではないか」と激賞するリチャード・ジュエルを演じた、ポール・ウォルター・ハウザーさんね!なんでしょう、冒頭でサム・ロックウェルに寄ってくるときの忠実な感じのかわいらしさとか、チャイルディッシュな頭の悪さ(純朴さともいう)、それでも彼の行動原理となる正義感のブレなさとその尊さを見事に体現していて、お菓子むしゃむしゃ具合も相俟って、「あぁんバカ!バカ!でも可愛いぞリチャード!」という感じで、イーストウッド映画史上屈指の可愛さでしたね。
イーストウッドの映画であんなにいい意味での笑い(失笑)が劇場で沸き起こったのも新鮮でした。

サム・ロックウェルの反骨の弁護士ワトソンも良かったね。ラフな短パンにポロシャツというファッションと飄々としつつ熱いキャラクターがドはまりでした。個人事務所の雑多な感じと、秘書のナディアさんの優しさがまた
ワトソンさんの人物を反射していて、その語りの豊かさも魅力的でした。

それからキャシー・ベイツのお母ちゃん…あの演説には泣くよ…お金も学もない母親が、いまにも噛みつこうとしている狼のようなマスメディアの前で、恐怖に震えながら息子への信頼をぶちまけるあの演説には、全宇宙のボンクラ息子たちがハンケチを濡らしていると思います。



しかし、この公権力・マスメディア・大衆の加害を描いた映画において、観客は一応フェアに観ようとすると思うんだけど、どうみても悪役にしか見えない、無能で独善的なFBIと新聞記者のありようはノイズになりましたかね。どのくらい史実に沿っているのかわからないけど、もうちょっと丁寧に描くか、出来ないのなら顔を持たせないほうがよかったかと思いますです。誰にでも起こりうる騒動として身に染みるけど、このディテールはちょっとな…という感じです。泣きながらキャシー・ベイツの演説を聞いていたら、「お前が泣くなよ!」というやつがソソと泣いているので(しかもそれで出番終わり)、ちょっと興覚めしちゃったのは事実です。

ともあれ、いつのもイーストウッド節が楽しかったので、もう一回観にいく予定(信者ですから)。
次は「ブラッドワーク」みたいな軽い安いでも面白い、という方向性の映画を撮ってほしいな。
長生きしてください、とは思うけど、正月にシュワルツェネッガーと楽しくスキーするインスタ画像が流れてきたので、まだまだ先は長そうです。しばしお付き合いさせてください、イーストウッド翁。
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