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ヴィタリナのatsukiのレビュー・感想・評価

ヴィタリナ(2019年製作の映画)
5.0
喪に服した人が家を修復する、ということが2019年の私事であった。ペドロ・コスタの講演・断章=この映画の撮影はリハーサルを含め一年をかけた。自分は何が撮りたいのか?ではなく、自分の撮りたいものをどう撮ればいいか?について悩んでいた。リハーサルを繰り返す。それは新しい試みでもある。1カットに1週間かけたこともあった。音楽や演劇のようにリハーサルをする。映画にリアリズムはいらない。自然主義や生きているような感覚は求めていない。もっと抽象的に存在や行為を求めている。役者が(カメラで捉えた)世界の一部となるようにする。他の要素(つまり、空間)が重要である。この作品は努力の結晶である。ヴィタリナとの信頼関係にもとづいていて、彼女を愛していると言っても間違いではないかもしれない。今も彼女に寄り添っている気持ち。出演者は自分のセリフを自分で書いているので、俳優であり脚本家でもある。だから私は監督というよりもオーガーナイザー。「ここはカットしたほうが意味が通じるんじゃないか」などの助言をして調整している。自分たちが取り組んでいる映画制作の手法は今はもう失われてしまった。かつては素人に演じてもらうこともあった。しかし今ではドキュメンタリー以外ではほとんどない。今作で試みているような深く題材を掘り下げることは稀になってしまった。私はこのような映画から得るものが非常に大きいと考えている。(リハーサルの到達点→)小さなヴァリエーションではあるけど、比べてみれば大きな違い。差異が生まれている。ある制約、ある枠組、のなかで自分がどこに立っているのか?ある型のようなもの。プロではない役者とそれを見つける。例えば、歩き方ひとつを見つける。その人が何者かになろうとする。その人は解放される。それも1人の人物ではなく、役者のなかに複数の人物が生まれている。何かを演じてほしいやこういうイメージを撮りたいということではなく、監督が役者と作っていく。なぜ暗闇を描くのか?ペドロ・コスタ自身も分からない。人々や生きている空間を見つけた。その人たちは何かを失っていた。何かを失った人たちは何かを考えている。考えているから面白い。面白いから撮る。考えすぎてしまうから暗くならざるを得ない。映画を見るという行為は思い出すこと。それと同時に忘れることでもある。すべての映画は人や場所や思い出に別れを告げるもの。どのように別れるか?例えば、『ヴィタリナ』では別れの手紙を30〜40通くらい書かせた。ヴィタリナの魂を浄化させたハッピーエンド。光のなかで確信を持って立っている。プロも素人も関係ない、これぞ映画に映るべき人。etc…。あの光は泣いてしまう。思い返せば、葬式と納骨の日だけが晴れていた。