このレビューはネタバレを含みます
『無限列車編』は鬼滅屈指のエピソードだ。ここまでの総集編であり、これからのプロローグでもある。物語の目的やテーマがバランスよく編み込まれており、最小限のキャラ設定さえ押さえておけば、この劇場版から観てもなんとなく楽しめてしまうのもさもありなんだ。
物語的だけでなく『鬼滅の刃』の作劇術を考えるテキストとしても『無限列車編』は重要だ。
・すべてを台詞によって説明してしまう。
例:炭治郎を中心に感情をすべて口にする。また察しが良すぎる。
・積み重ねのないまま盛り上げる。
例:ほぼ初対面の煉獄杏寿郎の死をクライマックスにする。
これらは一般的に「やってはいけない」とされているやり方だ。だが実際にはどうだったろう。私達は炭治郎の台詞に共感したし、ほんの一刻前に会ったばかりの煉獄さんを大切な人だと感じ、その死にざまに涙した。どうしてだろう?
炭治郎の台詞も杏寿郎の死もそれそのものが「感動」ではないからだ。「感動」は観客の胸にもとからあるのだ。極論だが台詞や死は感動を引き出すためのツールでしかない。
プラトン哲学に「イデア」という概念がある。この世に実在するのは「イデア」だけであり、私達が感じているのはイデアの「似像
」にすぎないという説だ。つまりもともと観客自身が「感動のイデア」を持っていて、台詞や死をきっかけに、各々が像を描き出しているだけなのだ。
『鬼滅の刃』に限らずどんな物語の感動もおおよそこの仕組みで生まれる。だが『鬼滅の刃』はそれが非常に意識的であるように思う。演出そのものが「感動」ではないのだと意識出来れば、台詞や出来事の描き方は大きく変わる。ありていに言えば「親切」になれる。
演出は物語から観客の心へと続く「線路」なのだ。“言葉にならない感動”が待っている「目的地」へ乗客を運ぶのだ。それが最速のルートであるなら、すべて言葉で説明してしまっても構わない。この台詞はどういう意味だろう?と観客を立ち止まらせなくてもいい。
「煉獄さんの勝ちだ!」炭治郎の長台詞が既存の方法なら必要だった数時間を数分に圧縮した。着いた! 目指していた終着駅にたった二時間で! 大切な誰かを失う悲しみ、託される喜び……映画館へ各自で持参していた「感動のイデア」へ。
固定観念に囚われず分かりやすさを恐れず観客に真っすぐに手を差し伸べる。「感動を伝える」から「感動を引き出す」へ。内から生まれた感動に観客は「これは私のための物語である」と強く感じる。
もちろん様々なアプローチがあっていい。考えさせることに意味がないなんて絶対に言わない。ただ『鬼滅の刃』は眩しかった。観客を喜ばせたいという大きな意思を感じる。自分のこざかしさを照らされるような気すらした。これからどんな物語を創るときも僕は必ず『鬼滅の刃』のことを思い出すと思う。