Beanpole(英題)の作品情報・感想・評価

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BIFFレポート⑨[戦争は女の顔をしていない] 100点

1945年のレニングラードは復興の最中にあった。復員した傷痍兵たちで病院はごった返し、人々は狭いマンションに身を寄せ合い、戦争には一応勝利したものの社会全体が今日を生き延びるという感覚で動いていた。物語は従軍経験からPTSDとなり、度重なる発作に悩まされる女性看護師イーヤの紹介から始まる。発作に襲われると、目は開いているものの焦点は結んでおらず、筋肉は硬直し、呼吸もままならずに体の全機能が停止してしまう彼女を、周りの看護師は"ビーンポール=のっぽちゃん"と呼んでいるのだ。確かに、182cmある彼女は周りと比べると頭抜けて背が高いのだが、それ以上に発作が起こると何も出来なくなり、言い方は悪いが正真正銘の"ウドの大木"となる彼女の特徴を的確に表した呼び名と言えるだろう。真っ白過ぎるイーヤの肌も、痩せ細った体も、真っ白な眉毛に至るまでViktoria Miroshnichenkoの存在感は素晴らしい。やはり、バラゴフの女優を選ぶ目は特筆に値する。前作『Closeness』でも、Darya Zhovnerの力強い目線によって映画は支えられていたことを思い出す。

そして、PTSDを抱えた"ウドの大木"といのは当時のレニングラード、引いてはロシアにも同じことが言える。国土の広さを利用したソ連の撤退作戦にはナチスも苦戦したが、同時にソ連も人口の15%近くを戦争で失っていた。働き盛りの男たちも戦傷を負い、ただデカいだけの国土を成立させられるだけの力は残っていなかっただろう。更に、舞台となるレニングラード(現サンクトペテルブルク)は900日もの間ナチスドイツの包囲戦を食らっていた都市であり、砲撃戦や兵糧攻めで100万人近くの人間が亡くなった狂気の街なのだ。砲撃で壊れた街並みの表面的な修復は終われど、人々の心は壊れたまま。前進と停滞を繰り返しながら時間だけが消費されていく、そんな戦争終結直後の世界が舞台となっている。それが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』に端を発する私の推し監督カンテミール・バラゴフの長編二作目である本作品なのだ。

イーヤは幼い子供パスハとともにレニングラードのマンションで暮らしている。自分の部屋は持っているが、キッチンなどは共用になっていて、そこには人々とその荷物がごった返している。シッターが居ない日は、パスハを病院に連れて行って、負傷した兵士に遊んで貰っていた。そしてある日、二人が自室で遊んでいると、イーヤを発作が襲い、動けない大きな体でパスハを押しつぶして殺してしまった。そんな最悪のタイミングで、パスハの母親が復員する。前線に残り続けたイーヤの親友マーシャだ。しかし、パスハの影は不気味なほど薄くなる。その死を知って以降全編を通して、マーシャがパスハに言及することはなく、なんなら知った次のシーンで夜でも開いてるクラブへ向かい、そのまま出会った男とカーセックスしている。恐らくは望まぬ妊娠の果ての子供であり、イーヤにとってもマーシャにとっても戦争の忌むべき記憶を嫌でも思い出させるパスハは、戦後の新しい人生を歩むという観点からは邪魔者だったのかもしれない。勿論、堕胎すりゃいいと思うのかもしれないが、帰る場所もないであろう少女に対してそんなこと言えることこそが平和ボケなんだと思う。

そして、妊娠できない体になっていたマーシャはイーヤにこう言う。私の子供を産んでくれ、と。これが本作品の中心となる。マーシャの子を産むために上司と無理矢理セックスするイーヤに対して、出会った地元の名士のボンボンと関係を深めていくマーシャ。一つの部屋の中で、戦中期に取り残されたままのイーヤと全てを捨て去って新しい時代を始めようとするマーシャが、互いの心を引き寄せ合ったり突き放したりして、二人の関係も前進と停滞を繰り返す。

イーヤとマーシャは鏡像のような関係なのかもしれない。緑のセーターを着ているイーヤと赤いセーターを着ているパスハが遊び、彼が退場すると今度はマーシャが赤いシャツを着て登場する。前作では目の醒めるような青を中心として、寒々しい青色のライトやセーターなど色彩に気を配っていた。本作品でもそれは健在で、話の中心になっている方のイメージカラーの光を空間に充満させ、小刻みに揺れるハンディカムと併せて、我々をその場に誘い、彼女たちの内側を透かして観ているような感覚に陥らせる。

イーヤは発作によって硬直し、マーシャは何もないのに鼻血を出す。互いに戦争の後遺症に苦しめられつつ、戦後の新たな世界で"普通の生活"を模索する。マーシャは前線で生き残るために、男たちの"妻"となって食料や安全を得ていた。それは一兵士として自らの意志では前線から離れられない女性兵士たちが、戦争を生き残る唯一の道だったに違いない。やらないと生き残れないなら、打算的に、効率的に最短ルートで生き残る。想像もしたくないが、そんな世界がついさっきまでマーシャの目の前に広がっていたのだ。パスハが死んで、自分の意志で自分の子供を生みたかったからこそ、唐突のカーセックスが登場したわけだし、映画から病院やそこにいた負傷兵たち、前線からの配給土産など戦争に関わる要素を少しずつ消していったのは、戦争を忘れたかった二人の感情をそのまま映画に落とし込んでいるからなのかもしれない。

病院が話から消えてしまう原因は、イーヤをお気に入りの看護師に指定している前進麻痺の兵士ステパンの挿話が、彼を安楽死させることで終わってしまうことにある。現代まで続く倫理の問題ではあるが、この苦難の時代に稼ぎ頭が前進麻痺で、しかも病院では面倒を見きれないと言われてしまえば、奥さんと子どもたちが生き延びていても関係ない。それを終わらせるのが、妊娠を強要されて戦時下に引き戻されたイーヤという皮肉が中々キツイけど、彼もまた二人と同じく"戦争によって身体の機能欠陥に苛まれ、生きる意味を失った人"に該当する。イーヤは彼を殺したことで、結果的にある種自分の負の側面を殺すことが出来たのかもしれない。映画のラストで、電車に轢かれた長身の女性(劇中でもビーンポールと呼ばれている)も、彼女の分身だ。映画は意識的に彼女たちの戦争の記憶を殺してきたのだ。

赤いシャツを着て鼻血を出していたマーシャが緑のドレスを着て部屋に戻ると、赤いセーターを着たイーヤが発作を起こしていた。緑と赤の壁紙が混在する部屋での見事な切り返しの後、イーヤは鼻血を出す。完全に実体と鏡像が入れ替わった瞬間だ。ボンボンとの交際を認められたマーシャは既に戦後復興の道を歩み始めていたが、結局子供を宿せなかった(つまりマーシャと同じだった)イーヤは未だに戦争に囚われたままだった。二人の関係は完全に逆転した形で頭に戻る。しかし、関係は変化すれど状態は同じであることを理解し合ったのだ。イーヤもマーシャと同じことをして戦争を生き延び、偶然と不運(幸運なのかもしれない)が重なってマーシャよりも早く、理由を持って前線を離れることが出来ただけだった。二人は遂に和解した。私は貴方で、貴方も私だったのねという悲しい抱擁は、互いのために生きていく未来を向いていた。

※現地レポート
この日の午前は若干余裕があったので、海岸散策やお土産物色、そして締め括りに選んだジュスティーヌ・トリエ『Sibyl』のチケットを買うなど用事を詰め込んでいたのだが、激しい腹痛によって目覚めたため、全予定をキャンセルして胃薬を飲みつつベッドとトイレを往復していた。幸いにも直前になって気にならないほどになったのでそのままジャンサンのMEGABOXへ向かった。劇場は8割埋まっていて人気の高さを知る。5月に前作を観たにわかファンながら、バラゴフの新作を劇場で観られることに感謝した。あと治ってくれた胃にも感謝。一番後ろの二人席だったが、隣が空いていたので悠々と観ることが出来たのも嬉しかった。セリーヌ・シアマ『Portrait of a Lady on Fire』と本作品を観に釜山に行ったようなものなので、鑑賞後は満足して完全に燃え尽きてしまった。