CHEBUNBUN

イサドラの子どもたちのCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

イサドラの子どもたち(2019年製作の映画)
5.0
【YIDFF2019:継承される舞/塗り替えていく刻】
山形国際ドキュメンタリー映画祭2019でダミアン・マニヴェル最新作にしてロカルノ映画祭監督賞受賞作『イサドラの子どもたち』を観ました。

ダミアン・マニヴェルはユニークなキャリアを持つ新鋭監督である。元々コンテンポラリーダンサーであった彼は、ダンスに纏わる映画を撮りたいと思い2006年にナム・ジュン・パイクを輩出していることで有名なLe Fresnoyに入る。そして『犬を連れた女』、『若き詩人』、『パーク』、日本ロケを敢行した『泳ぎすぎた夜』を撮ったが、一向にダンスに纏わる映画を撮ることができなかった。しかし、彼のミューズであるAGATHE BONITZERとダンスに纏わる映画を撮りたいという想いが少しずつ映画を形取る。やがて、イサドラ・ダンカンの《母》という作品のダンスチャートと出会い、本作のアイデアが生まれました。秋を舞台に、イサドラ・ダンカンに魅せられていく異なる3人の女性をテーマに物語ることとなった。
Il n’y aura pas de véritable amour dans ce monde aussi longtemps qu’on laissera souffrir des petits enfants.
(小さな子供たちを苦しめる限り、この世界には真の愛はありません。)

これはイサドラ・ダンカンの言葉である。彼女には2人の子供がいたが、1913年に車に惹かれて失っている。その悲しみを癒すように後に6人の子どもを養子にとっている。

そんな彼女の時代から100年が経とうとする世界で、彼女の哀しみの魂を継承し、浄化させようとする者へフォーカスが当てられる。

1番目の女性は、図書館で《母(=La Mère)》のダンスチャートを印刷し、誰もいない稽古場でゆっくりゆっくりと空間を掴んでいく。ダンカンは、ダンスが映像に収められることを嫌っていた(当時、写真もそうだが映像も、「悪魔に魂が抜かれる行為」と言われていた)ため、再現するためには、チャートを解読する必要がある。電子基板のように複雑な地図から彼女は時間を掴もうとするのだ。その白く淡い光景の包容感は、観る者をいつまでもそこに留めて欲しいと願うほどの美しさを持つ。

2番目の女性は、監督が障がい者演劇団からスカウトしてきたダウン症(?)の少女。彼女は先生からイサドラ・ダンカンの魂を継承されていく。彼女は知らない。イサドラ・ダンカンがどういった人生を送っていたのか。そしてダンカンの複雑な心境を汲み取ることができない。しかし、魂が与えられたかのように段々無から透明な《形》が生まれていく。

1番目の女性と退避させることで、主体/受動でイサドラ・ダンカンの哲学が継承されていく円環が形成され、本作の持つ《時》の側面が増幅されていく。ひょっとすると2番目の少女が成長すると1番目の女性となり、イサドラ・ダンカンの哲学を知った者が再び、彼女の地図と向き合おうとしているのではと思ったりする。

そして3番目の女性、神のような女性は我々を表す。直接画面に提示しない、2番目の少女の演技に感銘を受けたアフリカ系の老婆は、ゆっくりゆっくり町を徘徊し、家でゆっくりと踊り始める。そしてイサドラ・ダンカンの言葉を反芻する様は、我々が鑑賞後本作について思考を張り巡らせる様を象徴しているようにみえる。

ダンサーの間でもマニアックなイサドラ・ダンカンの《母》。映像にすら残っていないものを、3人の女性が解読し、観客に提示することで、観客に継承していく。

スクリーン外にも波及する、美しい時の物語は今年最高の多幸感をもたらした。ダンスを映像に捉える距離感取りが難しい挑戦でありましたが、徹頭徹尾洗練された哲学にイサドラ・ダンカンの面影を感じ取りました。

どうやらアンスティチュフランセの特集上映以外で日本公開するようなので、公開されたら是非挑戦してみてください!


P.S.余談だが、Q&Aで毎回スタンダードサイズで映画を撮る意味を問われた際に、監督は「物事をシンプルに見せられるからこの画角が好きなのさ。」と語っていました。また、ブンブンも監督に質問してみました。踊りという連続的なものを扱っているにも拘らず、随所に時間を表すテロップが挿入されるのは何故か?と訊いたら、本作は日記形式で演出したかった、秋を表現したかったと答えてくれました。
CHEBUNBUN

CHEBUNBUN