フラハティ

第七の封印のフラハティのレビュー・感想・評価

第七の封印(1956年製作の映画)
4.0
“死”との対峙へ。いざ。


『夏の夜は三たび微笑む』の成功により、パーソナルな部分を描いた作品へ、いかにも文学的で芸術さを求めた作品へ、名匠としての確固たる地位を築いたのが本作『第七の封印』である。

時は中世。
十字軍として従事した騎士と従者は、城まで旅を続けていた。
この世は黒死病により、多くの人々が命を落としていた。
そしてまた一人、死が目の前に迫ってくる。
さぁチェスをしよう。


この世界がもし絶望に溢れ、明日は我が身のような状態であったとき、誰もが死を予見する。
本作で救いは登場することはなく、幾度となく“死”が登場する。
その非常にネガティブである“死”そのものが、いかにもコミカルなのは面白いね。

死は不条理であるし、世の中の摂理も不条理。
現代より当時のほうが生きることは辛い。
どうあがいても死はやってくるし、どうあがいても魔女は駆逐される。
信仰に人生を任せようとしても、その見返りはあまりにも乏しく、積もりに積もった空虚さが、再び神により救済されることを願わずにはいられない。


本作は“神の不在”という視点に着目されているけれど、“神が存在”していたとしてもどうなのか?
これは人類の謎のひとつだけれど、いてもいなくてもどっちでもいいよね。
こんなこと言うのも何だけれど、僕らが助けを求めたところで、神はそんなの知ったこっちゃないでしょ。
つまり本作は、神がいようがいまいが、“死”というものは避けられない。
だからこそ今現在に目を向け、死を受け入れること、死から逃れることが最善の策、ということを語っているのか。
死を逃れるには誰がどんな行動を起こしたのかというのは重要でもあり、信仰という形を越えるためには、善行という人間の良心のようなものが大事なのかも。

酒場のシーン、魔女狩り、愛という不完全、争いなどなど、人間ってどういう存在だ?という描写を主人公の周りで描き、その地点から信仰だけでは完全にはなれない人間を描く。
死が持つ黒という色が、後半になるにつれ濃くなっていくように、本作の終焉も近づいていく。
主人公はどのようにして“死”と対峙するのか。


実際に死の間際、どうしようもない状況に陥ったときどんな行動を取るかで、その後の世界は変わっていく。
目に見えない神を信じるのか。
目に見える人間を信じるのか。
希望を繋げられるのはどう考えても後者だろう。
次世代を生きる子どもへ。
世界を構成しているのは、きっと人間。
人生の真理とは?
神は語ってくれるだろうか。
語るのはきっと人間だろうね。
フラハティ

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