雷電五郎

プロミシング・ヤング・ウーマンの雷電五郎のレビュー・感想・評価

4.5
キャシーは実家暮らしでコーヒーショップのアルバイトをしながら生活している。医大を中退した彼女は両親に漫然とした暮らしを責められながらも自由だった。
しかし、キャシーにはもう一つの顔が存在する。それは泥酔したふりをして付け入る男を陥れること。
彼女の「復讐」の始まりは親友ニーナが自殺した7年前に遡る。

サスペンスでありながら凄惨な演出を省き、陽気な音楽と一種異様な程にパステルカラーでまとめられたキャシーの家によって内容の凄まじさが視覚的に緩和されますが、キャシーの心の底に深く深く食い込んだ激しい怒りと憎しみを彼女の静謐の中から感じられる作品です。

かつて、これ程までに「女性の視点」で描かれた映画は存在しないのではないでしょうか。
これが、こと「若い女性が生きている現実」です。

冒頭のクラブでのダンスシーンから既に女性を身勝手に定義する人間達への皮肉は始まっています。
洋画によくあるクラブのダンスシーン、大概は女性の腰や尻の動きを中心に流れていくありふれた一瞬です。ですが、何故対象が女性だけなのか、何故女性だけが下半身をフォーカスされるのか、考えたことはあったでしょうか。
ごく当たり前のように女性を扇情的なもの、性的な目線で見てよいものという先入観。同じシーンを男性の腰や尻に置き換えた場合、その先入観の異様さが浮き彫りになります。

また、自らの欲望を押し付けようとした身勝手な男達が拒否されるとすぐに感情的になり、キャシーを罵倒する様は滑稽極まる程エゴイスティックで自身の加害性にあまりにも無頓着です。しかし、ナンパを断った女性を怒鳴ったり罵ったりする男性は現実にごまんと存在します。
迷惑をかけたのは自分であるにも関わらず、拒否されたことを受け入れられずに女性を責める。男性の自己分析と客観性の欠けた身勝手極まる態度にはうんざりさせられます。

不自然な程パステルカラーに統一されたキャシーの家は、女性が世間に押し付けられる「女はピンクが好きに決まっている」という本人の意思を無視したレッテルを皮肉り、そして、性犯罪に置いては女性自身すらも自らのうちに内在する女性軽視に気づかないという圧力による鈍麻を痛烈に淡々と映し出してゆく。

女性より男性の方が冷静で頭脳明晰と描写されがちなフィクションの世界にも「女性は男性より劣ったもの」という男性視点からの勝手な願望の押し付けがあります。しかし、作中キャシーは極めて冷静に、そして、精細な計画性でもって復讐を成し遂げてゆく。頭脳の優劣に性別は全く関係ないのです。

何故、加害者が「将来有望な若い男性なのだから」と保護され、「将来有望な若い女性」である被害者はなんの反論も許されず存在を消されてしまうのか。
あまりにも非対称な構図を疑問に感じないのであれば、それはこの作品を真に理解したとは言えないと思います。

若い女性に強いられるあらゆる蔑視を含んだ言葉と行動、男性がこれを見て「自分は違う」と首を振るのであればそれは作中におけるライアンと同じ、自身の差別的感情から逃げ、自身を客観視しない有害な保身に走っているのと同様です。

この映画は女性に課されるありとあらゆるレッテル、差別、蔑視に対する復讐であり、自分自身が社会から押し付けられた固定的なジェンダー観を覆せという苛烈なメッセージにも感じられました。

この作品における描写、特にキャシーに浴びせられる男達の汚い言動は映画の中のフィクションではあります。ですが、生身の女性が生きている現実との大差はありません。これが女性から見た世界なのです。

後半、それまでの男性達とは違いキャシーを尊重し同等の相手として接していたライアンがニーナのレイプを傍観し嘲笑していたとキャシーが知ったくだりで、彼女が異性との恋愛を選ばず、同性との友情を選び最期の復讐へ赴く姿も痛快でした。
女性にとって異性との恋愛が最優先であり至上のもの、という馬鹿げた固定観念を蹴り飛ばす決断でしたね。女性同士の間に友情がない、女性は友情より恋愛を優先するという長きにわたる固定観念に対してもキャシーは見事に「NO!」で答えた訳です。

それを踏まえた上で、この映画が単なる良質なサスペンスという評価は「悪意なき傍観者」であるライアンと同じ立場ではないかと、自らを顧みて考えてみないといけないと思いました。

素晴らしかったです。女性にも男性にも観てほしい作品でした。
(2023.5.26 追記)
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