KnightsofOdessa

Hunger(英題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Hunger(英題)(1966年製作の映画)
3.5
[決して成功しなかったある天才の肖像] 70点

追悼グンネル・リンドブロム。私の大好きな女優の一人が亡くなってしまった。彼女はベルイマン作品に多く出演した後、ジョン・ギラーミン『かもめの城』で"スウェーデンのソフィア・ローレン"としてハリウッドデビューを飾るものの、ハリウッド的な映画製作や故国を離れることが好きになれずスウェーデンに戻り、その後は主に舞台で活躍していた。イングリッド・チューリンやマイ・セッタリングなどベルイマン女優たちと同じく、リンドブロムも『砂の上の楽園』を含めて映画を撮ることもあった。また、ベルイマン以外の作品にも何度か登場している。中でも本作品とマイ・ゼッタリングによる『歓喜のたわむれ (Loving Couples)』『ガールズ (The Girls)』の三本は特に有名だろう。特に本作品の社会的リアリズムは、カール・テオドア・ドライヤー以降のデンマーク映画で初めて国際的な注目を集めたことで知られている。クヌート・ハムスンの半自伝的小説を基にしており、主演の Per Oscarsson がカンヌ映画祭で主演男優賞を受賞した。

本作品の主人公は田舎からオスロ(舞台となる1890年当時はクリスティアニア)にやってきた貧乏作家ポントゥスである。プライドは高く外見を取り繕うことに必死になっているものの、金がないことで肉体的にも精神的にも飢えている状態にある。知人からの援助の申し出は見栄を張って断り、自分よりも貧しい人間がいるとして騎士道精神を発揮し、道で出会った女性(グンネル・リンドブロム)との甘美な世界を夢想する。"明日こそは世界で一番幸せな人間になるだろう"として無下にされ続ける現状をポジティブに変換し続けるどこか狂気じみた執着は、ぺこぱの松陰寺的な姿勢を感じる(原型だったりするのか?)。編集者が原稿を読む15時という時間を起点に、一日中クリスティアニアの街中をウロウロするだけの映画ながら、立ち止まれば警察官が寄ってきて、動けば腹がへるので肉屋で廃棄用の骨を貰って齧ったり、家具屋で削りカスを拾って齧ったりと中々壮絶なひもじい生活が克明に描写される。恐らく彼には天才的な才能があるだろうことは示唆されるが、尊厳を失わないための行動と現実があまりにもかけ離れているために、これまで(そして恐らくこれからも)成功を掴みそこね続けてきた。

後半になると常々ポントゥスの視線を感じていた女性(彼は"イラヤリ"と呼んでいる)が物語に飛び出してくる。彼女が登場するシーンはどれも幻想的で、本当に起こっていることなのか定かでない(幻想は白くボヤケているが後半の彼女の登場シーンはボヤケてない)。イラヤリがポントゥスを追いかけるシーンでは、突然通りから誰も居なくなったり、橋の上と下にいる二人が届かない距離感を暗示したりとかなり技巧的に作られている。仮に彼女が本物だとして、貧乏作家ポントゥスに惹かれる理由は釈然としないものの、終盤に二人は会話を交わし、身体を重ねようとして、イラヤリと呼ばれる女性はポントゥスを拒絶する(グンネル・リンドブロムはまたこんな役やってんのか!)。彼女は何年か前にポントゥスを目撃していて、疲れ果てた現在の彼の中に古き良き時代の面影を探り出し、自らのものとしようとしたある種の傲慢さが見え隠れするも、ポントゥスがボロボロになっても尊厳を失わずに直立していることに驚きを隠せない。逆にポントゥスは、本来地続きであるはずの過去の自分とは別人となっていて、自分の或いは他人の過去に囚われず現在と未来を観ていることも暗示される。

イラヤリを代表とする"ポントゥス以外の人々"は、基本的に彼よりも富んだ生活を送りながら、彼と同じくらい、或いはそれ以上に飢えている。そして、ポントゥスよりも貧しい人々はポントゥスの施しに疑念を感じる。これは、ポントゥスが(相対的にも絶対的にも)飢えていないことを示唆している訳ではない。なんだか高潔な行動と現実の齟齬が一周回って噛み合ってしまったような奇妙さと絶望的な飢えに対する更なる絶望を感じるが、ラストはちと甘め(著者本人が成功したから?)。

クラウディア・カルディナーレが亡くなる日には耐えられる気がしない。
KnightsofOdessa

KnightsofOdessa